昨年は妻、啓子と私を覚えて、とりなしの祈りを捧げ続けて下さったことを感謝します。神様の御守りと皆様の篤い祈りのお蔭で、啓子は一年の命が四年に延び、新年を迎えることが出来ました。皆様の信仰に基ずくクリスチャン愛に対して、心から御礼申し上げます。
今朝、取り上げた聖書の言葉、ローマ人への手紙5章8-11節を読みますと、11節の最後にある「私たちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶ」ということが、今の私の心にもあります。神様の限りなく深い愛を思い、時折り嬉しくなり、「父なる神様!イエス様!感謝です!有難うございます!」という祈りが私の心に生じます。この四つの節の中に「私たちに神の愛が示されていること」、「キリストの血によって今は義とされていること」、「神の怒りから救われていること」、「神との和解を受けていること」が語られています。この四つの恵みは皆キリストによって与えられたので、使徒パウロは「私たちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶ」と語っているのです
私たちに対する神の愛が示されたのは、「私たちがまだ罪人であったとき、私たちのためにキリストが死んで下さった」からだとパウロは語ります。私が18歳の時、初めて教会に行って礼拝で説教を聴く時まで、私が神の前に罪人であることなど全く思いもしないことでした。ところが、牧師先生の説教を聴いていた時、聖書が語る聖霊が私に臨み、私が神の前に罪人であることを悟ったのです。聖霊の清い光が私の魂に宿る闇の中に隠れている罪深い事柄を抉り出したのです。それは苦しい体験でした。自分の意識の中に無かったことが顕わにされ、はっきり罪深いこととして示されたからです。
私は無神論者でした。偶然に生まれ、偶然に死んでゆく人生は空しいと思っていました。偶然の中には必然性は無いのです。「自分は生まれてこない方が良かった」と語り、母親を苦しめました。高校生になり、心の友がクラス替えにより別れてしまい、孤独が私を悩ませました。生きる意味を求めて読書に回答を求めても、自分を満足させる答えは見つかりませんでした。好きな女性を意識するようになり、心に汚れた情欲が生じる自分を嫌悪しました。私は自殺を考え、死後の世界が存在しない証明を宗教に求め、教会の門をくぐったのです。そして、神の憐れみにより、聖霊体験をしたのです。
聖霊は私の無神論を打ち砕きました。そして、神などは19世紀の遺物であり、神は存在しないと豪語して、神の存在を否定し、クリスチャンである母を悲しめていた傲慢さと、「自分は生まれてこない方が良かった」と言って、母親を苦しめましたことも罪として示されました。自分の命を絶つ行為も罪深いことであると知りました。聖霊により私の魂の中に神の愛が注がれ、神の愛を強く自覚し、私は神の存在を確信しました。自分が偶然に生まれ、偶然に死んでゆくのではなく、神のご計画の元で、使命を負って生まれていることを教えられたのです。私は悔い改め、信仰告白をし、バプテスマを受けて古い不信仰の自分に死に、新しい自分に生まれ変わったのです。
聖霊が私を更に清めて下さる過程で、次々と聖書が語る罪について教えられ、悔い改めへと導かれたのです。イエス様が「聖霊、真理の御霊があなたがたの所に来たら、罪と義と裁きについて、世の人の目をひらくであろう」と言われた通りの事が、私に起きました。教会のクリスチャンの中に、自己主張が強く、厳しく人を裁く人、傲慢な人、言葉で人の心傷つける人を見出しました。「あなたはそれでもクリスチャンと言えるのか!」と裁く自分が実は、正義感が強く、厳しく人を裁く人、傲慢な人、言葉で人の心傷つける人であり、寛容と愛が無い、まして祝福の祈りすらすら出来ない罪深い人間であると教えられたのです。
クリスチャンになり、逆に罪の意識が強くなりました。一年浪人して、国際基督教大学で学び、西南学院大学神学部で学び、牧師となり、51年間伝道に従事しましたが、その間に、神を愛する愛が自分には無いこと、人を自分自身のように愛せないことが、私を苦しめ続けてきました。愛の足りない悔い改めは現在に至るまで続いています。
私は協力牧師の責任から自由にされ、妻の介護に努めながら、ゆとりが出来た時間に、私の大学時代の恩師であり、無教会伝道者として著作を多く残された高橋三郎先生が発行し続けられた『十字架の言』を読み返しています。高橋先生は1994年4月、運転ミスにより鉄柱に車をぶつけてしまい、首の神経が切断されて、首から下が自由に動かない体になり、20年以上車椅子の生活を余儀なくされるという苦難を体験されました。愛真高校を創立され、優れた伝道者やクリスチャン医師、教師を多く生み出された方ですが、自分に臨んだ厳しい試練の奥にある神の御心はどこにあるのかを、長い間探求し続けられました。そして、2007年の『十字架の言』12号の中で、自分の傲慢に対しる神様からの鉄槌であったことを告白し、懺悔しておられるのです。そして、罪深い自分の命を守って下さった神の赦しと護りを心から感謝し、十字架の主イエス様の恵みを『十字架の言』を通して語り続けられ、2010年にお亡くなりになりました。
2009年の『十字架の言』1月号の記事の中に、元大阪市立大学教授で、現在関西外国語大学で教え、愛真高校理事長の責任を負っておられる佐藤全弘先生が、元東大総長の務めを果たされた矢内原忠雄先生が癌を患われて、お亡くなりになる前に、神の前に自分の罪の告白をされたことを次のように述べています。「人の前では信仰者らしく振舞いつつ、メフィストフェレス[ゲーテの作品『ファウスト』に登場する悪魔的存在]のように偽善的なことを隠して行ったと涙ながらに神に詫び、赦しを与えられて晴晴れした心で召されたと(再婚された)恵子(夫人)が述べている」(19頁)。矢内原先生のお弟子が、そこまで暴露しなくても良かったのではないかと抗議したほど、驚くべき告白と懺悔でありました。罪の告白は、聖霊によって起こされるものなのです。
たとえ有名なクリスチャンでも死ぬ間際まで、心の奥に隠している罪責があることを物語る例の一つです。有名でなくても、多くのクリスチャンは心に生じる罪への傾きに悩み、葛藤を続けていることは事実です。何度も誘惑に負けて、「こんなに弱く罪深い人間は救いには値しない」と勝手に自分に見切りをつけて、教会を去る人もおりました。使徒パウロは自分を「罪人のかしら」と呼びました。彼は「自分以上に神の御前に罪深い者はいない。神の僕である多くのクリスチャンたちを迫害して牢獄に繋ぎ、教会の執事ステパノを死に追いやった殺人者であり、キリストの敵、神への恐ろしい反逆者だったのが自分だ」と語るのです。
宗教改革者マルティン・ルターも悩みました。灯台の光が暗い海を航海する舟を照らし出すように、意識の光で照らし出した罪を告白しても、灯台の光が足元を照らすことが出来ないように、自分の意識が届かない心の奥深くに隠れ潜んでいるどす黒い罪の根っこは告白出来ないまま存在することに気付きました。そして、その罪は神の目には明らかに知られているのであれば、神父に懺悔・告白して赦しの言葉を受けたとしても、それは自分の一部の罪への赦しでしかなく、罪を生み出す根っこをえぐり出すことが出来ず、罪の根はそのまま残っていると考え、ルターは魂の平安を失ってしまったのです。
私たちもルターと同じ悩みに陥ることがあります。「誘惑に陥ることなく、悪からお救い下さい」と祈っても、誘惑に抵抗する力が弱く、サタンの誘惑に負けてしまうことが時折りあるからです。創世記に書かれているアダムとエバのように、自分の過ちの責任を他の人に押し付けてしまうことがあます。自分を傷つけ悩ます人を憎み、怒りを抱き、嫉妬やねたみの思いが心に湧き上り、苛立ちがしばしば生じます。目の慾、肉の慾が心をとりこにします。いつの間にか強い執着に捕らわれていることに気づきます。祈りを怠り、聖書よりもテレビ、新聞、雑誌に興味を抱いてしまう自分の信仰の弱さを思い、こんな自分は救われていると言えるのだろうかという疑いさえも頭をもたげてくる時があるのです。自分は滅びてしまうのかもしれないという不安。これこそサタンの誘惑の目的なのですが、ルターの悩みは非常に深刻でした。
ルターは詩篇22篇の学びの中で、十字架上でイエス・キリストが叫ばれた言葉、「わが神、わが神、何ゆえわたしを捨てられるのですか」に思いを集中しました。ルターは自分が聖なる神の前では弱く汚れており、神の聖さを冒す者であることを良く知っていました。しかし、キリストは神の御子として強く、清く、罪を犯されなかったのに、何故ご自身が神より捨てられたと感じられたのか。何故キリストは絶望の淵に立つ厳しい試練を受けられたのであろうかと真剣に考えたのです。ルターが見出した答えは唯一つでした。キリストが人間全ての罪を一身に引き受けられたからに違いない。神は焼き尽くす神、清め、懲らしめ、癒されるお方。神は気まぐれな神ではない。神は御子においてすべての人の罪を
裁き、死へと罰し、死より甦らしめ、すべての人の罪を赦してくださった。信仰だけがこの神秘を掴むことができる。キリストの十字架で受けた傷は、われらの癒しと和解のためであった。人間に無くてはならぬものは信仰である。父なる神がキリストによって人が救われることを求めておられること、それを信じることが人間の側になくてはならない。その信仰は神の言葉を聞き、学ぶことから来るのだ。ルターは、ハバクク書2章4節の「信仰による義人は生きる」という言葉に、全く新しい意味を発見したのです。
ルターの発見した「神の義」は、罪人を裁く義ではなく、神はキリストの十字架のあがないゆえに赦し、あたかも義人であるかのように、罪深い者を受け入れて下さるという、罪人を赦し信仰に至らせる神の義だったのです。ルターは「天国の門が突如開かれたように感じられた」と語っています。救いは努力により達成されるのではなく、キリストの贖罪を信頼して受け入れ、罪深いまま自分を神の御手に委ねてしまうことによって実現すると悟ったのでした。
ルターの魂に真実の平安を得て、神と和解できた喜びが心に宿り、ドイツにおける宗教改革を進めることが出来たのです。
私たちが罪人であることを自覚しないで生きてきた遙か以前に、私たちのために、キリストが死んで下さったことによって、父なる神様は私たちに対する愛を示して下さいました。私たちはキリストが十字架で流された罪を贖う血によって、今は神様によって罪赦されて義とされていることを知り、喜ぶのです。イエス様のお蔭で、神様の裁きから自由にされていることを信じ、感謝するのです。私たちは「神など存在しない」と豪語し、神に背き、この世の快楽に溺れ、神に敵対していたのに、父なる神様は、御子イエス様の死によって、赦しと和解の手を差し伸べていて下さったのです。なんと有難いことでしょう。私たちは何度も何度も背いても、父なる神様が愛をもって「わが子よ、私の元に帰ってきなさい。私のもとで安らぎなさい。」と呼びかける言葉を聞くのです。ローマ人への手紙5章8-11節はそのように力強く語っているのです。
新しい年を迎え、日本が、そして自分が、少しでも御旨に近づくことが出るように、日々祈り、悔い改め、主の十字架を仰ぎつつ、赦しと和解の喜びに生きて参りましょう。
2015年1月11日の説教 元協力牧師 斎藤剛毅