皆さんがお金持ちになって、仮に自由に使えるお金を1億円持っているとしましょう。そのお金をどう取り扱いますか? 以外と難しい問題ですよ。「私の心はどこにあるか」が問われます。今日のキーワードです。
口語訳聖書では、12章16~19節を次のように訳しています。
16そこで一つの譬えを語られた、「ある金持の畑が豊作であった。17そこで彼は心の中で、『どうしょうか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして18言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに〔わたしの〕穀物や〔わたしの〕食糧を全部しまい込もう。19そして自分の魂に言おう。魂よ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。
ここに、「わたしの作物」「わたしの倉」と私の、私の、と言っているところに自分の力を過信する姿を読み取ることができます。
「愚かな金持ちのたとえ」はそこにいた多くの人たちみんなに語られました。遺産相続で兄弟に進言してほしいと頼んだ人のみならず、弟子たち、そしておびただしい群衆(12:1)に向かってイエスさまはこの譬えを話されています(12:15)。それは決して、この問題が個人的なものに終わるのではなく、一人ひとりの事柄として受け止められるべきことを示しています。ここで語られる「愚かな金持ち」の様は、個人的な悩みへの解決として語られたのではありませんでした。人の貪欲に対する問題を普遍化し、誰にでも起こりうる問題としてとらえ、そして一つの指針を指し示されたのです。愚かな金持は、豊作のゆえに「作物をしまっておく場所がない」と思い巡らせます。多くの作物をどのように保存するのか、盗まれないようにするにはどうすればよいかを懸命に考えたのです。そして一つの結論を出します。「もっと大きな倉を建てよう。そうすればこの先何年も不自由なく暮らせる」と。蓄えることによる安心は、この人の心もそこにあるということの表れでした(12:34)。イエスさまはこの譬えを語った後、こう結んでいます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(12:21)。これは「有り余るほど物をもっていても、人の命は財産によってどうすることもできない」(12:15)というイエスさまの言葉に対応するものです。財産を分けてもらえなかったその人に、そして弟子たちや群衆に向かっても、「神の前に豊かに生きることこそが求められるべき事柄だ」と示されたのです。
神様は、私たちの人生に、神の国とその義をまず求める者に注がれる、溢れるような祝福を与えてくださっています。神様は私たちの心の中をよく知っておられます。私たちが神様よりもお金を愛していないか、神様と物をいつも天秤にかけてはいないか、人生において神様のことを優先しているか、すべてご存じです。
私たちは、信仰によって生きているようでも、実は不信仰な生き方をしています。教会に出入りするだけでは本当の信仰は育ちません。私たちは、自分にはできないと放っておくことが何と多いことでしょう。本当の信仰は、自分の考え、知識、正当性、信念から来るのではなく、神のみ言葉から来るのです。今日からの新しい一週間を、すべての面でみ言葉を実践する聖い人生の模範を示せるように、共に神様により頼み歩いてまいりましょう。
2015.2.15 説教要旨 牧師 岩橋隆二