今から丁度20年前の3月に教会に行き始めた私は、直ぐにイースターがやってきて、教会の皆さんが「イースター、イースター」と言っていることに、何のことか分からずに戸惑ったことを思い出します。ほどなく6月にバプテスマを授かった私は、新生なった自分、生まれ変わった自分を強く覚えたものの、復活の出来ごと、その深い意味を悟るには少し時間がかかりました。
クリスマスは、イエス様がお生まれになった日として、日本でも毎年イベントが行われていて馴染み深いものです。収穫感謝祭も、スーパーマッケットの秋の特売等で定着しつつあります。しかし、クリスマスと並んで重要なイースターについては、よく知らないという方も多いのではないでしょうか。あの東京ディズニーランドが、やっと昨年からイースターイベントを行うようになったということからも、その難しさがうかがえます。
イエス・キリストがこれ以上ない嘲りと苦しみにあわれた末に、十字架につけられ死なれました。そして三日目に甦られたということは、教会の歴史の中で繰り返し繰り返し記憶されてきました。毎年復活の祝いをするだけでなく、その復活の起こった日曜日の朝が、私たちにとっては礼拝の日となって、二千年の歴史の中で教会はこの日を祝いながら歩んできています。復活については、いろいろと私たちにとっては、解らないことや疑問などがあります。しかし、教会はそのことを科学的に解明するとか、理論的に証明するというのではなく、私たちの為に死なれ、再び私たちの前に姿を現してくださり、生きて生命の希望となっているその事柄を、具体的にイエス様との出会いの経験の中で繰り返し祝ってきました。
弟子たちが二人、自分たちの先生がもう死んでしまったという暗い想いの中に閉ざされながら、重い足どりでエルサレムから西の方に夕日に向かってとぼとぼと歩いて行く様を、私たちは聖書から聞くのです。その時に、見知らぬ人が一人彼らに添うて対話をしながら、エマオの村までいっしょに歩んで行きました。彼らがエマオの宿屋に泊った時に、この見知らぬ人も宿屋に入って食事を共にしました。その食事の時に、パンをさく様の中でイエス様がそこにおられることに彼らは気付きました。そして、その後、姿が見えなくなったその人がイエス様であると悟った時に、そういえば、あの道々で聖書について問答をしてきたあの時に、私たちの心は燃えたではないかと彼らは回想したのです。私たちが毎週日曜日に行っている礼拝は、習慣的な儀式ではなく、生きておられるわが主イエス・キリストとの出会いを経験するためのものです。私たちは時々エマオ途上の二人の弟子たちがそうであったように、パンをさく、つまり晩餐という形でイエス様との出会いを繰り返し経験し、そのようにして私たちの教会の礼拝は成り立っているのです。
私たちは、さまざまな人生の浮き沈みや行き詰まりを経験しながら、しばしば失望し、生きる望みを失いがちです。そのような時、再びこの生ける主と出会い、生きる望みを回復するという生活の生命のリズムを、新しい1週間の生活と主日礼拝のリズムの中で経験しながら、地上における生涯を全うしていこうとするのが、私たちキリスト者の生き様であるということができるでしょう。
2015.4.5 説教要旨 牧師 岩橋 隆二