聖書箇所:出エジプト1:15~22 説教題:「神を畏れるとき、祝福が臨む」
牧師 岩橋 隆二
「出エジプト記」はモーセ五書の第二の書ですが、実際にはモーセ五書のみならず、旧約聖書全体の基礎をなす書であるとともに、イスラエルの人々が神の民とされた始まりについて記すものです。
出エジプト記は、ヤコブという一人の族長から始まります。彼は飢饉を避けて家族
とともにエジプトに行った避難民でした。神は、避難地でその子孫を豊かに栄えさせました。7節では、「多くの子を産み」「ますますふえ」「はなはだ強くなって」と繰り返し語っています。それならば、ヤコブ一人からイスラエルの子孫が全地に満ちる過程は、どこから始まったのでしょうか。聖書は「ヤコブの腰」(5節)と記しています。ヤコブがヤボクの渡しで天使と争って傷つけられた、その部分です。回復することはないと思われるような深い痛みがあっても、そこに神の力が臨めば、いのちの出発点に変わります。
神様がともにおられるところには、豊かな生命力があります。苦しみと挫折の場において、より神様の力は現れます。私たちは、人間として生きている以上、常に苦しみ・苦難がありますが、そのような場において、私たちは、さらなる神様の力を期待しているでしょうか。
神様の御心とご計画は、決して変わることはありません。迫害と妨害がひどくなればなるほど、神様は強い力をもって導かれます。ヤコブ一族が飢饉を逃れてエジプトに移り住んでから430年が経ちました。かつてエジプトを大飢饉から救ったヨセフのことを知らないエジプト王が国を治めることになりました。王は増え続けるイスラエル人を恐れ、このままでは、一度紛争が起これば、エジプトの国を滅ぼす側にまわるのではないかと思うようになりました。エジプト王は、イスラエル人に重労働を課して虐待しました。ところが、イスラエル人は虐待されればされるほど増え広がったので、王はイスラエル人にさらに苛酷な労働を強制します。ついに、エジプト王は助産婦にイスラエル人が出産する時に男の子であれば殺すように命じます。しかし、助産婦は神を畏れていたので、エジプト王の命令には従わずに男の子も生かしておきました。王という絶大な権力に従うよりも、神様に従う決心をした助産婦たちでした。王に逆らったら、助産婦という職業ばかりか命さえ失う危険を伴ったことでしょう。この決断を支える力はどこにあったのでしょうか。「神を畏れる」という助産婦たちの信仰による知恵が、エジプト王の暴力を封じて、この時代の危機を乗り越える力をもっていたのです。
「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9:10 新改訳)という御言葉のように、助産婦たちはこの世の王をしのぐ知恵深い人々でした。助産婦たちのこのような態度は、心から神様を信頼していたがゆえに可能だったのです。神様は、助産婦たちの畏怖心と信仰に恵みを与えられ、彼らの家を栄えさせました。イスラエルの民もまた、二人の助産婦のおかげで増え、強くなりました。私たちキリスト教徒一人ひとりの信仰は、家庭だけでなく、国全体に祝福をもたらすのです。