2015.10.18説教要旨 題:「高ぶりを捨て神に栄光を帰せよ」
聖書:エレミヤ書13:12~17
牧師 岩橋 隆二
「かめにぶどう酒を満たすべきだ」(12節:新共同訳)は、当時の大衆の格言と結びついていると言われています。酒飲みの間では、「ぶどう酒のかめ」とは酒好きの人を指し、「いくらでも酒が入る」という冗談めいた意味で用いられたといいます。ヘブライ語の「かめ」(ネベル)は「馬鹿、愚鈍」(ナバル)の掛け言葉との説もあります。あざ笑いに囲まれながら真剣に警告しようとする預言者エレミヤの心痛が想像されます。
本来、かめにぶどう酒を満たすのは祝宴のためですが、ここでは泥酔と混乱を引き起こすために神様がお命じになったものです。神の民は、住民も指導者(王、祭司、預言者)も、すべて神の怒りの盃を飲まされるというのです。
人々が楽しく過ごすその場所で、取り次がれた神の言葉は、「互いにぶつけて砕いてしまう。親子であろうが、わたしは容赦はしない。だれ一人あわれむことなく、彼らをことごとく滅ぼしてしまう」(14節)という厳しい裁きの言葉でした。それは、バビロン帝国による外からの圧迫のみならず、神の民の指導者の間に、世代の間に、家族の間に分裂が起きて、内部から崩壊するという最悪の事態を告げるものでした。
「亜麻布の帯のたとえ」と「酒つぼめのたとえ」の預言のあとで、エレミヤは、傲慢を悔いて、神様に栄光を帰すように神の民に悔い改めを勧告します。光のあるうちに悔い改めて神様に立ち帰れと勧めています。神の民は、その傲慢さのゆえに捕囚に引かれていきます。そして、エレミヤは隠れた所でこの悲しい結末を一人淋しく嘆くのです。預言者エレミヤの目から流れる涙は、あたかも神様の痛みを表わしているかのようです。
私たちは、心がかたくなになったり、高慢になる時、相手の言葉を聞けなくなってしまいます。一方、エレミヤが「かめにぶどう酒を満たすべきだ」と言うのに対して、人々が「我々が知らないとでもいうのか」と応答すると言われているのも印象的です。相手の言葉に聞く耳を持とうとしない人々は、エレミヤが語る言葉に対して、「そんなこと分かっている」とタカをくくっていたのです。そんな人々に対して、エレミヤは「エルサレムのすべての住民を酔いで満たす」と語ります。人々は、もはや自分たちが置かれている状況をきちんと問うことも、判断することもできず、時代のうねりに酔ったように流されていくのです。
私たちも肝心なことが何も分かってないのに、「分かっている」という高慢に陥っていることはないでしょうか。時に「おかしい」ということをどこかで感じていながらも、時代のうねりに流されてしまっているようなことがあるかも知れません。「おかしい」と感じる一つの例として、私たちの国では、今の政府は国民の声も聞かずに「マイナンバー制度」を始めようとしています。社会制度・税番号制度と言っていますが、私たちの人格を無視して国民を番号で統御することにもなりかねない制度に危険はないのでしょうか。このような時こそ、敵対者が、対立者同士が、立ち止ってきちんと問うこと、今日の15節のみ言葉「耳を傾けて聞け、高ぶってはならない」を思い起こすことが必要なのでしょう。
ユダの民は、つぼに酒を満たすように腐敗と高慢に満ち、その結果神のさばきを受けるのだという意味を理解できませんでした。彼らは、まるで酒に泥酔した人のように、無気力で無分別の状態で神のさばきを受けます。エレミヤはさばきの日が下る前に「神、主に、栄光を帰せよ」と勧めました。神に栄光を帰すとは、神のみことばを軽く考える高ぶった心を捨て、へりくだって罪を告白し、みことばに耳を傾けることです。私たちは、神に栄光をささげることが人生の目的であることを覚えなければなりません。