聖書箇所:ヨハネ12:20~26 説教題:「一粒の麦となられたイエス」
牧師 岩橋隆二
エルサレム入城から最後の晩餐にいたるイエスさまの最後の数日間について、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は、様々な出来事を記していますが、ヨハネ福音書はそのほとんどを省略しています。そのきっかけとなる出来事として、ギリシャ人の来訪の出来事がここに記されています。ここに登場してくるギリシャ人がどういう人たちであったのかは詳しくはわかりません。ギリシャ人でありながら「過越の祭りを祝うために、エルサレムに上ってきた」(12:20)と説明されています。おそらくギリシャ語を話すユダヤ人のことではなく、生まれながらの純粋なギリシャ人、すなわち異邦人と思われます。イエスさまが受難に向かう時の転機となる出来事を、異邦人の来訪に見るヨハネ福音書は、福音がユダヤ人内に留まるのではなく、世界的な広がりをもつものであることを強調し、伝えようとしていると考えることができます。
世の中の悲しみや思い煩い、不安のない人はいません。エデンの園には悲しみや不安や恐れがありませんでしたが、サタンが喜びや平安、愛、幸せを奪い、罪を通して私たちの心にゆがんだ感情を植えつけました。悲しみや恐れは、神さまが与えられた感情ではありません。神さまは私たちに喜びを与えてくださいました。それは、世が与える喜びとは違います。世が与える喜びは一時的で、死と絶望につながっていますが、神さまが与えてくださる喜びは永遠の喜びです。それはいのちと希望を与えます。十字架を負うために去って行かれるイエスさまを、弟子たちは悲しみと不安の思いで見つめました。しかし、イエスさまは、あなたたちの喜びをだれも奪い去ることはできないと言われました。生きていれば、耐えられないほどの苦しい状況に遭遇することがあります。しかし、イエスさまは私たちの悲しみを喜びに変え、世が決して奪い去ることのできない喜びを与えてくださいます。神さまを愛する人には、悲しみが喜びに変わり、うめき声が賛美に変わる恵みがあります。すべての苦しみと悲しみの涙は、神の国の永遠の喜びと祝福のための産みの苦しみです。荒野は決して結論ではありません。約束の地への過程であり、私たちを整えていかれる神さまのみ業なのです。
イエスさまが語られる栄光は、十字架の後ろにある栄光でした。十字架のない栄光は、偽りであり幻です。つかんだと思っても、何も手に残っていないのです。苦痛のない名誉は名誉ではなく、苦労せずに得た富は富ではありません。汗と犠牲の中で得たものがまことの財産であり、名誉であり、栄光になるのです。それにふさわしい苦難が必要なのです。無条件の愛のゆえにいのちを捨て、永遠のいのちをくださった主は一粒の麦でした。主の生き方にならって、この地で一粒の麦として死に、実を結ぶことができますように。神さまによる喜びを回復し、決して奪われることのない喜びの道を共に歩いてまいりましょう。