2016.2.21説教要旨 聖書箇所:ヨハネ13:1~11 説教題:「足を洗われる愛」
牧師 岩橋隆二
イエスさまは自分が弟子たちを愛しているということを示したいと、奴隷がすることとされていた足を洗うことを弟子たちに対してなさいました。イエスさまがなされることは、汚れている部分に必ず直に触れられます。「愛する」という行為には、そのことが必要なのだと教えておられるのではないでしょうか。イエスさまは片手間でササッと弟子の足を洗われたのではなく、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれ、全身全霊をもって弟子の一人ひとりの汚れた足を抱え込むようにして洗われたのです。他者を愛するということは相手のきれいな部分、自分がいいと思うところだけを愛することではないと、イエスさまは教えられています。
私たちは丸ごと愛してもらわなければ、本当に愛を知ったことにはなりません。でも、私たちは普段汚ない部分は周りに見せないようにしているのではないでしょうか。
自分でもそこは見ないようにしているといった方が正確かもしれません。私たちの本音は、たとえイエスさまでも、そこには触れさせないと考えてはいないでしょうか。弟子たちの躊躇は、そういう私たちの本音を見事に表していると言えるでしょう。
イエスさまが弟子たちを愛し抜こうとされる愛の係わりに対して、「そこまでしていただくのは、申し訳ない」「自分で自分の足は洗えます」と遠慮することは、主の愛の係わりを拒むことになるのです。私たちの一見謙虚な姿が、実は自力や自己責任で頑張ろうとして、主の愛の係わりを拒んでいることになるのです。素直に足を差し出して洗っていただこうではありませんか。
「榎本保郎先生の一日一章」の今日の聖書箇所の最後のところに次のコメントがありました。この記事を紹介して終わりたいと思います。
<イエスは「わたしが足を洗ったからあなたがたも足を洗い合いなさい」と言われた。足を洗いなさいというのは、律法的な意味でなく、その喜びを持って人々に仕えていきなさいということである。イエスの愛を受け、そこに目をとめ、そこで生かされる、そのことによって私たちはお互いに人の足も洗い、また人をも愛していくことができ、あるいはイスカリオテのユダのような人にも、私たちが仕え、愛していくことができる新しい世界が生まれてくるのではないかと思う。> そのように述べられています。
お互いに汚れた足を洗い合い、共に永遠の生命の道を喜んで歩いてまいりましょう。