聖書箇所:ダニエル書1:8~9 説教題:「心を定めたダニエル」
岩橋隆二
「ダニエル書」は、書の主人公「ダニエル」の名前にちなんで命名されました。ちなみに、「ダニエル」とは、「神はわたしの裁き主」という意味です。
時は、紀元前605年、バビロン(新バビロニア帝国)の王ネブカデネザルがエルサレムに攻めてきたのです。歴史的には、「第一次バビロン捕囚」として知られている事件です。ネブカデネザルは、エルサレム神殿に置かれていた金銀の器(宝物)を、帝国の首都バビロンに持ち去ります。ここで興味深いのは、2節の「主は・・・彼の手にわたされた」という表現です。これは主が、この災いに深くかかわっておられる、というふうに読むことができるのではないでしょうか。ユダ王国にとって悲しむべき大災難といえるこの出来事は、神の赦しの中で起こったのです。このことは、ダニエル書9章でダニエル自身が詳しく説明しています。
私たちの人生にも、「神がおられるのなら、どうしてこんなことが起るのか」と思う出来事が起ることがあります。東日本大震災の被災者、熊本大地震の被災者しかりです。しかし、その苦しく悲しく痛ましい予期せぬ出来事がふりかかることを、神様はお許しになることがあるのです。そこに、その時点では理解出来ないけれども、神様の私たちに対する目的が隠されているのです。
「バビロン捕囚」は、エルサレムが陥落する紀元前586年を含めて3回にわたって、ネブカデネザルの遠征によって行われるわけですが、第1回目の捕囚で捕虜になったのは、王族・貴族の人たちが中心であったことが聖書に記されています。王は、肉体的な健康を備え、しかも頭脳明晰な優秀な若者に、自分と同じ食物と酒を与えて最高の教育をさずけ、その後、国家の繁栄のために彼らを用いようとしたのです。これらの若者の中に、ダニエルと彼の仲間3人がおりました。ダニエルと彼の3人の仲間は、他国での不自由な捕虜の身分であったにもかかわらず、自分たちが信じる信仰と食生活を守ろうとしました。彼らは自分が捕虜の身分からと言って、正しい生き方から離れさせようとする誘惑に対して、決して妥協しませんでした。彼らは、異教国家の中枢に置かれても、神に従うことや、自分たちが親から遺産として受け継いだものを、捨てることはありませんでした。ダニエル書は、異邦の国に捕囚として連れて来られても、信仰を守って生きていく者には、神の祝福が備えられていることを伝えています。
私たちも人の顔や批判を恐れることなく、ダニエルのように大胆に自分の信仰を通して行く時、つまり、はっきりと神の側に立ちきって行動する時に、神様は必ずそこで最善に働いてくださるのです。その時、私たちの思いをこえて、神が恵みと憐みとを得させてくださるのです。