2016.11.13 説教要旨 聖書箇所:イザヤ 18章4節
説教題:「神は静かに、ながめたもう」 久原 榮實子
イザヤ18章は、諸国への審判(諸国への預言)として記された13章から23章の中の一編で、岩波訳によれば、(クシュからの使者へ)と項目が付けられています。クシュ人はエジプトの南方、エチオピアの人を指します。ここでイザヤは、エチオピアからユダに来た使者に向かって故国に帰るように呼びかけます。アッシリアの軍隊は、エチオピア人に向かって進軍しました。軍隊は進みつつあったが、神様はこれを止めようとはされなかった。軍隊はその目的を遂行するかのようでした。そして4節「わたしは静かに、わたしの住まいから、ながめよう」その戦いの時、神様はその住まいから彼らを見守っておられた。ご自分の民が戦っているその時、神様が静かに見守っておられたと、イザヤは預言するのです。岩波訳聖書は、「わたしは平穏になって、わたしの場所から眺めよう。」と訳しています。敵が襲って来ようとして、おじ惑っている人々を思い、神様ご自身が心騒いでおられるが、それでもなお、平穏にして我が民をながめようとしておられるご様子が見えるようです。私たち人間が、神様に助けを求める姿が記されていますが、神様が、私たちを見ておられる箇所も多く記されています。
新約聖書にも、救い主として、この地上に来て下さったイエス様が、見守って、祈って下さっている箇所が何箇所も記されています。イエス様はご自分の弟子達が暴風の夜に、船を漕ぐのに疲れたのを見ておられました。また愛するラザロが、病に負け、墓に運ばれるまで、見守られました。イエス様は、ご自分が最も良い時と思われる時まで、静かに待っておられました。ローマ8章26節に、御霊みずから、切なるうめきをもって、私達の執り成して下さる神様が記されています。主イエス様が、私のために、私たちの為に祈って下るのです。
祈りは私たち人間が祈る事だと思っていますが、実は、聖霊として来て下さった主イエス様が私のために、私達のために祈って下さるのです。私たちが、恐れたり、不安になったり、思うようにならないと焦ったりする、その時に、神様が黙って、ながめておられると聖書は語ります。私たちに対する神様の問いかけと沈黙が何であっても、又、わたし達の思いで、どんなに長く思われようと、どんな困難であろうと、神様は絶対に黙認しておられるのではないと知らされます。私たち一人一人に対して、神様は愛ゆえに、待っておられるのだと知らされます。ですから、私たちは黙して忍耐して神様の時を待つのです。
聖書は、神様を信頼して、忍耐して待つことが信仰だと示しています。神様は、どんな時も、救い主として来て下さった主イエス様を信頼する事を望んでおられます。主イエス様を本当に信頼するなら、私たちは心騒がして、自分を見て嘆いたり、人を裁いたり出来ない者に、変えて下さる神様がおられます。信仰とは、人間の側からの事ではなく、共にいて下さるお方への信頼と確信にすぎないのです。神様の前に立つ時に、一番に大切なことは、見せかけではない、情けない自分をそのまま、持っていく事だと思います。祈りの中で、あわれみ深い主なる神様に出会うことほど幸いなことはないでしょう。