2017.2.5説教要旨 題:「重荷を負う者への招き」 聖書:マタイ11:28~30 牧師 岩橋 隆二
「28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
「重荷」の意味は、「重い荷物」のこと、「能力をこえた大きな責任」のことの二つありますが、聖書では旧新両約を通じて、精神的な煩い、労苦、災禍を「重荷」という語を用いて表現しています。あるいは象徴として用いています。それは時には、個人に、また部族、国家にまで適用されています。「くびき」とは、牛、馬など大型家畜を犂(すき・田畑を耕す農具)や馬車、牛車、かじ棒に繋ぐ際に用いる木製の棒状器具(横木)のことを言います。聖書に出てくる「軛」は、対になるものとの意味があります。つまり、二頭の牛・馬を繋ぐ横棒のことです。
〈疲れた者、重荷を負う者〉という言葉には、少なくとも三重の意味があります。第一に、当時ユダヤ人たちは律法やそれに付随する伝承の重圧を「重荷」と呼んでいました。イエス様は、この律法主義的戒律の重荷にあえぐ者たちに語りかけられたのです。第二に、罪の重荷に苦しむ者に語りかけられました。そして第三に、人生の思い煩い、苦しみ、問題などに悩む者に語りかけられました。イエス様は人生の重荷を負い、人生の疲れを癒してくださる方です。それゆえ、すべての人に〈わたしのもとに来なさい〉と命じ、その命令を〈休ませてあげよう〉という約束をもって裏付けられたのです。
〈くびき〉は人が牛馬を御するのに用いるものです。それは気ままに歩むものにとっては束縛、邪魔者となるが、主人の心に従うものには必要なもの、願わしいものです。ここ使われています「休ませる」(ギアナパウオー)と〈安らぎ〉(ギアナパウシス)という言は、元来竪琴の弦を緩めることから来ており、イエス様に従う時に不安、罪悪感、欲求不満など人を極度の緊張、焦燥感に追いやるものから解放されることによる安らぎを意味します。
片方にイエス様が、一方に罪多い弱い私たち自身が〈軛〉によって繋がれていることを想像するだけで恐れ多くなりますが、何と言う大きな慰めであり励ましでしょうか。私たちがイエス様と〈軛〉によって繋がれているということは、イエス様と霊的に繋がり、その交わりの関係に、また師弟関係に入ることを意味します。このようなイエス様との関係に入ることが、真の平安への道です。イエス様がおっしゃる〈私の軛〉は、イエス様がガリラヤ随一のくびき作りの名人で、その評判のくびきを買うために人々は全国各地からやって来たという伝説を思わせます。イエス様のくびきは肌がすりむけるようなものでなく、一人一人に合うように入念に作られた快適なものであり、それを負って生きることは真に生きることになります。イエス様と共に歩む時には、重い荷も軽くされるのです。
信仰は、神様の言葉に信頼して従うとき、成長します。信仰はまた、救いの鍵です。信仰自体が救いではありませんが、救いにおいて信仰は欠かせないものです。私たちの不安や思い煩いを打ち崩し、あわれみと恵みと望みを与えてくれるものが信仰です。信仰によって人生を解釈するとき、驚くべき神様の御手を経験できるのです。信仰は、苦難の中でも勇気と忍耐をもって歩み続けることができる原動力になります。イエス様と共に軛を負って歩いてまいりましょう。