2017.3.5説教要旨 題:「悪き僕の譬」 聖書:マタイ18:23~35
牧師 岩橋 隆二
ペテロがイエス様のところに来て言いました。「兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾度ゆるさねばなりませんか」。ペテロは実際、身の周りにそのようなことが起きたのでしょう。具体的な人間関係の中で直面する事柄としてイエス様に尋ねたのだと思います。イエス様は私たちが兄弟に対して取るべき態度を教えられました。イエスは彼に言われた、「わたしは七度までとは言わない。七度を七十倍するまでにしなさい(18:22)。これは「490回」というのではなく、充分と思う分の七十倍、つまり、赦しに限度を設けてはならない、という意味です。自分が神様に赦していただいた極悪な罪を思うなら、他の人の罪も赦せるはずです。当時、ユダヤ人のラビは、他の人の過ちを少なくとも3度赦すようにと教えました。ペテロは主の弟子ならば、7度くらいは赦すのが正しいと考えたのでしょう。しかし、イエス様は限界を定めずに赦さなければならないと答えられます。聖徒は、1万タラントの負債をすべて免除された僕のように、神の無条件の罪の赦しの恵みを受けて価なしに救われた存在です。私たちは、とうてい返すことのできない罪の負債を負った者ですが、神様はそんな私たちを憐れんで完全に赦し、その罪を思い出されません。この愛を深く悟るとき、他人に対しても心から赦すことが出来るのではないでしょうか。そして、イエス様は「天の国」のたとえを語られました。
会計の決済の時です。一人の家来が連れて来られます。彼は一万タラントのお金を預かっていました。決済の時、その一部を使いこんでいたのでしょう。でもその一部としても返済は不可能です。主君は一切合切の財産を売って返済するように命じました。しかし、家来はひれ伏し、「どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから」(26節)と願いました。返せる目途などある筈もなく、その場限りの言い逃れです。単なる時間稼ぎで申し入れたのでしょう。しかし、「僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった」(27節)とあります。「あわれに思って」を岩波訳は「腸がちぎれる思いがし」と訳しています。しばしばイエス様の他者への悲しみや憤りの感情を示す強い表現です。この思いによって、主君はその借金を帳消しにしてやりました。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言った、と記されています。その仲間は、家来が主君に懇願したのと同様に繰り延べを乞います。しかし、家来は仲間の懇願に耳を貸すことなく牢屋に入れました。家来の対応は主君の知るところとなり、「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」(33節)と、激しい怒りをかいます。主君は、借金を返済するまで家来を牢に入れました。そして最後にイエス様は、「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」(35節)と結ばれます。
罪人が悔い改めて赦しを求めるとき、クリスチャンはその人を赦すべき絶対的な義務があると思います。1万タラントの借金がある者のたとえには、救われたクリスチャンが隣人を赦さないなら、神様もそのクリスチャンを赦されないという意味が込められています。受けた恵みが大きいほど、心から赦しを求め、赦しを与える者となるべきです。そうでなければ、大きな借金を免除されても恵みを知らない悪い者と同じです。