新しい歌を主に向かって歌え
明けましておめでとうございます。
「主を褒めたたえよ。主に向かって新しい歌を歌え。聖徒の集いで、主の誉れを歌え。」
この詩篇149篇1節は新年礼拝に相応しい聖書の言葉だと思います。
「主を褒め称えよ。」私たち一人一人の過去に与えられた、数え切れない多くの神様からの恵みを思い起こしますと、主を褒め称える気持ちが高まります。今日という日にも主の恵みが降り注がれています。私個人にとっては、皆様の妻への愛のとりなしの祈りに神様が応えて下さり、無事新年を迎えて今日も生かされていますので、「主に向かって新しい歌を歌え。聖徒の集いで、主の誉れを歌え。」という気持ちが心に強く感じられています。新生讃美歌46番も新年礼拝の賛美に相応しい歌ですので、今年も選びました。
昨年は教会組織がなり、連盟加盟が実現しました。今春に皆様が後任牧師の招聘の決議をして下さいますと、私は安心して幕引きが出来ます。この教会に対する責任を果たし、協力牧師としての重荷を下ろす御透視が付いてきましたので、私の心に安堵感が与えられています。(思えば77歳までよく頑張れたものだと思います。)
今日は149篇と共に詩篇42篇の言葉を選びました。私の昨年の、また今年も引き継がれている心の想いを見事に表現している言葉だからです。千日祈願が成就して11月3日の礼拝で妻が証しをする恵みが実現して、「一年の命を三年間も延ばしていただく」主の栄光の御業を拝しました。妻は「2月3日が二人で晩の時を聖別して、病める人びとのために祈り続けて丸3年になる日だから、次の目標として掲げる」と言います。病人には生きる意欲となる希望は大切なものですから、妻の願いを大切にしつつ、「主の御心がなりますように」と祈り続けています。妻の癌の病は主の栄光を現すために充分用いられたと思います。
CTスキャンもMRI検査も、決して良い報告は得られないと分かっていますので、検査を受けないため、どの程度進行しているかが客観的に判断できないため、「癌細胞が動脈を食い破った時は止血が不可能なために、突然死が訪れる」と看護師長さんより告げられています。全てを主の御手に委ねつつ、日々を感謝に生きることは妻にとっては可能でも、病院通いをしつつ、妻に出血が生じたことを看護師の方から聞くにつれ、主のもとに召される時が近づいているのかもという思いが生じることは否めません。末期ガン患者の家族の複雑な気持ちを理解できるようになりました。妻は無事新年を迎えましたが、年末の26日、27日、29日、31日、そして一月3日と出血が続き、止血剤を注入する点滴も受けていますので、現在の私の偽らざる心境は「めでたさも中ぐらいなり、おらが春」という一茶の俳句が言い当てています。
詩篇42篇の3節に“人々がひねもす私に向かって「お前の神はどこにいるのか」と言い続ける間は、私の涙はひるも夜も私の食事であった”と歌われています。昨年の2月に左目の視力が癌細胞によって奪われ、手探りで家の中を歩き、私が用意した食事をこぼしながら食べる姿を見た時、重い皮膚病で全身が覆われたヨブが神様の前で呻いたように、私の心にも呻きが生じました。詩篇42篇の2節は口語訳で、「わが魂は乾いているように神を慕い、いける神を慕う」とあります。新共同訳には「慕う」という訳は用いられておらず、「神よ、私の魂はあなたを求める」と訳されています。新共同訳の方が私の気持ちをより正確に表現しています。「50年間、主の御用のために夫婦で力を合わせて救霊伝道に励んできた私たちに、何故妻の視力が奪われるという辛い試練が与えられるのですか?」と神に問い、その理由を求めるのですが、その問いが他の方々の心にも生じています。
新共同訳では3節に「私の魂は神に(対して)乾く」とあります。神の沈黙の中で、何時訪れるか分からない妻の死、天に召される時に対して、何時訪れても良いように心の準備をしながらも、緊張が長く続くと心理的疲れが生じます。じっと忍び、耐えている時、出血の知らせを受ける時、癌細胞が勝ち誇ったように「お前の神はどこにいるのか」と言いながら、妻の健康な細胞を破壊してゆく敵に思える時があります。私は「破壊された細胞の悪い血が流れ出て、新しい血が神様によって造り出されているのだ」と良い方に積極的に考えることにしています。私たちにとっては「死はイエス・キリストの待っておられる天の御国に迎えられる時だ」という信仰がありますから幸いです。死別の悲しみは大きくても、悲しみの底は浅いのです。
詩篇42篇を書いた作者は、「私はかつて祭りを守る多くの人と共に群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた」と詠っています。私も51年間半の伝道生活の中で、クリスマスや復活の祭りの際に、教会で感謝の歌を教会員と共に神に捧げたことを思い起こして、「神様は今まで全てを最善に導いて下さった」という思いに至る時、不思議に魂の疲れが癒されるのです。しかし、緩和ケアセンターの病室で年末から出血の数が増えてゆくと、詩篇42篇の5節に、「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしの内に思い乱れるのか」とありますように、思いが乱れることは事実なのです。そして作者が自分の弱さを率直に表現していることに慰めを感じます。
長い間、苦楽を共にし、良き助言者、相談相手であり、伝道の協力者であった伴侶をやがて失うという思いが生じることは、辛く悲しいことです。でも、それは誰もが一度は体験することです。詩篇42篇5節には「神を待ち望め。私はなおわが助け、わが神なる主を褒め称たたえるであろう」と続いています。
私は苦しみの試練の中で、イザヤ書48章10節にある神さまの言葉を思い起こすのです。「見よ、わたしはあなたを練った。しかし銀のようではなくて、苦しみの炉をもってあなたを試みた。」苦しみの炉の中で、私の信仰は試され、強められ、神に近づけられて来たことは確かなのです。ヘブル人への手紙12章5節以下には次のように述べられています。「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはいけない。主は愛する者を訓練し、受け入れる全ての子を鞭打たれるのである。」「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられるのである。」このような言葉を聖書の中に見出して、御言葉を心に刻みますと、「神を待ち望め。私はわが助け、わが神なる主を褒め称たたえる」という気持ちが強められます。父なる神様は御国に相応しい清い魂にするために、愛の鞭を私と妻に与えていて下さるのだと考えると、次の聖書の言葉が有難い言葉として受け入れられるのです。
「魂の父は、私たちの益のため、その清さにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は喜ばしいいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。
しかし、後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
それだから、あなたがたの萎えた手と、弱くなっている膝を真っ直ぐにしなさい。…清くならなければ、だれも主を見ることは出来ない」(ヘブル12:11-12;14)。私たちの魂を清くするために、神様は私たちに苦しみという試練をお与えになることは確かです。
NHKの朝の連続ドラマの「ごちそうさん」の中で、料理の先生が「食べることは生きることです」という台詞が出てくるのですが、その言葉が何故か私の心に強く残っています。妻の作ってくれる三度の食事を食べて生かされてきたのですが、三ヶ月半も自分で食事を作り食べていますと、妻の料理の味が懐かしく思われ、妻の存在の有り難さを強く感じます。しかし、妻から教えられたレシピーを基に作る私の味噌汁も、昼のパン食も栄養のバランスをよく考えて、「結構美味しい」と思いなから、「食べることは生きることだ」と自分に言い聞かせながら、イエス様が「私のためにもう十分に働いたから、帰っておいで」と言われるまでは、しっかりと生きてゆかねばと考える日々を送っています。
私は神様から与えられた御言葉の料理人として、明石教会、長住教会、レキシントン教会、福間教会、二日市教会、筑紫野南教会で、信徒の方々に御言葉を出来るだけ美味しく味わえるように説教を作り、語る努力をしてきました。自信作と思うものは何度か提供しました。でも過去の説教を読み返してみますと、まずいものもありますので、申し訳なく思います。
今日の説教はいざという時に備えての皆様と私自身に対する説教でもあります。
私が苦しみの試練の中でどのような聖書の言葉から慰められ、力を受け、苦しみに耐える力を獲得してきたかをお話した次第です。聖書の持つ計り知れない恵みの力を皆様が知っていただきたく語りました。
今年も聖書に親しみ、祈りを重んじ、神様との霊的交わりを続けて、清い魂へと練り清めていただくために、一日一日を感謝と賛美の中でいきてゆきましょう。