2017年6月11日 聖書箇所:創世記3章1節~13節、20節、21節
大野惠正著「旧約聖書入門1」からの抜粋
「人間であることに留まる」(P203)ところでこの「善悪の知識の実」とは、何なのでしょう。2章を学んだとき、「善悪」のように相反するものを並べるとき、それは「善から悪までのすべて」を意味すると学びました。善悪のすべてを知っているのは神をおいてほかになく、「善悪の知識の木を食べてはならない」とは、「自己中心に陥って、自分が神になってはならない」ということを意味しているのだと、申し上げました。人間として造られた人間は、神を神とし、人間の本分を生きるとき、2章に記されているエデンでの屈託ない豊かな自由(裸でも恥じない、ありのままの自分)を他者と共に生きることができます。エデンとは、所与の場所を指すと考えますとき、所与の場をそれとしていただき、そこで人間としての本分を尽くすことが人生というものなのでしょう。ところが、自分をすべての中心と考え、まるで自分を神であるかのように思うとき、何が起きるのでしょうか。自分が裸であることを認識する目が開かれる。ヤハウィスト(ヤハウェ資料をまとめた人)はそう書くのです。こうあります。「すると彼ら2人の眼が開かれた。そうして彼らは知った。自分たちが裸であることを。それでいちじくの葉をつづり合わせた。それで腰帯を造ったのである」。2人は裸である相手を見、自分もまた裸(アローム)であることを知ったのです。いちじくの葉で腰部を覆ったというのですから、自分の裸にうっとりしたのでなく、むしろ覆い隠さないではいられない自らの恥を感じたということでしょう。
(途中略 P205)のびやかに裸で暮らしていた彼らは、互いに互いを隠し合い、互いを閉ざしたのです。夫婦の間に亀裂が走ります。彼らから自由は失われ、不自由が彼らの生活を覆います。隠し合わなければならないものをもつということは窮屈なものです。男と女は息が詰まるような暮らしに堕ちていきます。
(途中略 P212)神は裸であることを知っておののいている人間のために、皮の衣を作って着せます。互いの恥を覆うためです。こうして辛うじて人間は生き恥を被われて暮らせるのです。人生で犯す様々な罪や恥をことごとくあからさまにされるのでは、人は到底生きることに耐え得ません。しかしその多くは覆われて人の目に晒されないようにされています。それで人は辛うじて体面を保ち、生きることができるのです。「神が皮の衣を造って下さった」とはそういうことです。
(途中略P214)創世記3章は、人間が神のようになろうとするところで何が起こったかを語っています。人間は神のように振る舞おうとして、実際は不自由と責任のなすりあいを摘み取ったということです。