2017年7月9日 聖書箇所:創世記4章1節~18節
大野惠正著「旧約聖書入門1」からの抜粋
比較級思考の悲劇―――カインとアベルの物語(P215~P232)
エデンの外に送り出されたアダムとエバに二人の子供が産まれます。カインとアベルです。エバはカインが生まれた時、「私はヤハウェと共にあって、男の子を得ました」と言ったと書いてあります。ヤハウェに背いてエデンの園から送り出された土地で、エバは、ヤハウェと共にある日を過ごしていたと解せます。大地を相手に労苦して生きたアダムとエバに与えられた小さな命であるカインとアベルは、二人にとって喜びであり大切に育てられたことでしょう。ふたりの子供たちは成長し、カインは農民、アベルは遊牧民となります。耕作と遊牧は古代中近東の人々の主要な営みです。
彼らは、年の終わりとなって、献げものを神の前に携えてきました。一年の収穫感謝のためだったと思われます。ところが「ヤハウェはアベルとその献げものには目を留められた。しかし、カインとその献げものには目を留めなかった」(4節~5節)というのです。それで、カインは頭をガクンと落としたのです。それにしても、ヤハウェは何と不公平はことをするのでしょう。誰もが訝りを覚えるのではないでしょうか。
「神が目を留める」とはどのようなことかをめぐっては、四つほどの説明がなされています。そのうち、クラウス・ヴェスターマンの説明は、事の本質を突いていると思います。農民カインと遊牧民アベルが収穫感謝の献げものを携えて来た。ふたりとも、その年の最良のものを持ってきた。ところがカインのものは粗末で、アベルのものはみごとなものだった。その年、農作物は不作だったのに対し、牧畜は多産であった。カインはアベルの献げものを見て、弟が手に入れたものの豊かさに嫉妬した。なぜ、不況なとき、不調な日、ついてない時があるのでしょうか。そんなものを神が与えなければいいのにと人間は思います。カインの怒りの根源には、それがあったでしょう。たしかに、人生には順境の日があり、逆境の日があります。人間は順風満帆を望みますが、常に順風満帆であることが良いわけではないことを私たちは知っています。順調な生活が長く続くうちに、傲慢で思いやりを欠いた人間になってしまうことがしばしばあるからです。逆境は人間としての成長のチャンスです。その時、どうあるか、どうするかがその人にとって、人生を決定する肝心なときとなります。
突然恐ろしいことが起こりました。妬みに発した憎しみは殺しに至ってしまったのです。それが私たち人間の現実です。弟の所在を問うヤハウェに対し、カインは知らぬ存ぜぬを決め込みますが、人間が罪を隠しても、神の前に到底隠しおおせるものではありません。カインは地上を放浪することになります。自分の罪の結果に驚愕し、恐怖のあまり悲鳴を上げ、カインはヤハウェに嘆願します。神はカインの嘆願を聴きとどけ、カインを誰もが殺さないように、カインにひとつのしるしをつけられます。嘆願する罪人に対する神の慈しみです。生き直せとの存在の肯定です。カインも私たちもノド(さすらい)の地に住んでいます。神の憐みによって生を保証された者として、自制心を習得し、比較級思考(どちらの方がより良いか考える)を正しく用いて生きたいのです。