2017年9月17日説教要旨
聖書箇所:創世記5章1ー32節
主に結ばれていれば
大野惠正
今日の聖書の箇所は、なんだこれはという思いを抱かせます。人の名前がずらずらと出ていて、その寿命が、驚くほど長い。こういう箇所に、どんな意味があるのかと思います。聖書の繋がりで言えば、この箇所は6章からノアの箱舟の物語が始まりますので、アダムからノアに至る人々の系図を記しているのです。つまりアダム、カイン、セトの物語の後ノアへとつながる系図を記しているのです。
この系図というのはその子孫にとっては、とても大事なものです。アイデンティティの出どころを物語るものだからです。マタイ福音書の初めにも、系図が出てきます。この創世記の系図も、マタイ福音書の系図も、キリスト信徒とされているわたしたちにとっては、大事なものです。わたしという人間に至る、神さまの民の系図がここにあるからです。私たちは旧約聖書と新約聖書の人々の子孫とされたものだからです。
この系図が第一に語っていることは、人間はその両親から命を紡ぎ出され、一定の期間を生きて、必ず死ぬと言うことです。誰から生まれ、何歳の時に子を授かり、何歳で死んだ、と書かれています。人間は死を免れないのです。私たちはいつか必ず死ぬのです。
しかし今日、私たちは礼拝への招きの言葉で、「死は勝利に飲まれてしまった」という言葉を聞きました。コリントの信徒への手紙1の15章45ー58節に記されている言葉です。そこでは、土から出来たこの身体が壊れるとき、つまり死ぬとき、私たちは主イエス・キリストの復活の勝利に与るということが書かれています。
これはどういうことでしょうか。私たちがこの世の命を終えるとき、私たちの前に主イエスが迎えてくださって、私たちを真実な真の神さまの民として御国に入れてくださるということです。そこには、すでに御許に召された私たちの信仰の先輩が群れをなして私たちを歓迎し、わたしたちを御国での豊かな交わりに加えて下さるのです。ですから、コリントの信徒への手紙1を書いたパウロは57節で「私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を賜る神に、感謝をしよう、皆さん」と叫ぶのです。ここに創世記に始まる神さまのすべての働きが帰結する所のことが書かれています。
わたしたちは、その意味で、死を超えて、さらにその先にある御国での永遠のいのちに蘇ることが許されるのです。ですから、死ぬことに対して思い煩うことはやめましょう。
コリントの信徒への手紙1の15章58節に、こう書かれています。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかりと立ち、主の業に常に励みなさい.主に結ばれているならば、自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。私たちは主に結ばれています。これが一番大事なことです。神さまの前にあっては、無駄なことは何一つないのです。ですから、礼拝に来ることや、教会の奉仕をすること、社会的な働きをすることを、時として無駄なことのために生きているのではないかと思うことがあるとしたら、それは間違いなのです。
私たちはこの永遠の相のもとで生きているのです。これは途方もないことです。そしてその途方もなさに、ペレーを覚えながら、この週も、主が与えて下さる命の道をともに歩ませていただきましょう。私たちは主の恵みのもとにあるのです。