【聖書箇所朗読・説教音声ファイル】
2018年7月1日説教要旨
聖書箇所 マラキ書3章10節~11節
「什一(じゅういつ)」
瀬戸 毅義
什一をみな宮にもたらし、わたしの家に食物をあらしめよ。これを持ってわたしを試み―万軍の主は言われた―わたしが君たちのために天の窓を開き、君たちにあふれるばかりに祝福をそそぐかどうかを見よ。(マラキ 3:10)「旧約聖書」関根正雄訳)口語訳、新共同訳は「什一」ではなく「十分の一」としています。
キリスト教の礼拝には献金があります。「賽銭やお布施と献金はどう違うのでしょうか。「賽」には神仏にむくいる意があり、「賽銭」は神仏に参詣(さんけい)してささげる銭のことです。「布施」は人に物を施しめぐむこと、僧に施し与える金銭または品物のこととあります。(広辞苑)
キリスト教会もこの世に存在しその使命を果たすためには経済的な基盤が必要です。クリスチャンはそれぞれの生活の中から、信仰の献げ物をしますが、生活の形態によって献げる品物は異なりました。農耕生活が基本であった時代は、収穫した農作物の一部を礼拝の時に献げました(申命記14:22以下など)。貨幣経済の時代になりますと、この献げ物は「献金」という形になりました。
「献金」という言い方はずいぶんドライな、そのものずばりの表現ですが、これは昔から礼拝行為としてのオフェルトリウムと呼ばれてきたものに相当します。このラテン語は、「献げること」「献げ物」を意味します。したがって少し固い表現ですが、「奉献」などと訳されています。実は、神の民が神の恵みに応答し、神を崇める礼拝行為のすべてが「奉献」の行為であると言うことが出来ます。そこで、祈りを献げる、讃美を献げる、感謝を献げる、礼拝を献げるという言い方をします。さらに神の栄光と宣教の奉仕のために、時間を献げ、賜物を献げ、人生を献げるのが礼拝共同体としての神の民のライフスタイルとなります。
デイヴィドはイギリスの貧しい少年でした。着飾った紳士淑女たちの集まる礼拝に、みすぼらしい衣服で参加するのは恥ずかしい気がしましたが、彼はキリストを愛し、み言を聞くことを何よりも喜んでいました。献金の時になり、銀の献金皿を持った執事が会衆席を回って来ました。デイヴィドはおずおずとその献金皿を床に置いてくれるように頼みました。そして、その皿の上に彼は乗ったのです。「神さま、私にはお金がありません。しかし私自身をあなたにお献げします」と小さい声で祈りました。この少年が、後にアフリカ伝道に献身して命を献げたリヴィングストン宣教師だったと伝えられています。この逸話が示すように、献金は献身のしるしです。お礼金でも、お賽銭でもありません。会費でもカンパでもありません。(今橋朗著『礼拝を豊かに』より)
クリスチャンは、自分の生涯、身体、健康、すべてのものは神からのいただきものであり、お預かりしたものと考えるのです。
(2018年7月7日追加)
創世記28:20-22の読み方
「ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。(口語訳)
このままではヤコブは神様と条件闘争をしているように思えます。この箇所でヘブライ語イム[もし]を「くださるなら」とするよりも「くださるとしても」が正しいとラビ・トケーヤーは言います。
ヤコブの誓願は「食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるとしても…10分の一を神にささげます」でした。普通ならば金持ちになれば神様を忘れてお金を出すことをしませんが、ヤコブは「誓願がするとしても、神に10分の一は捧げます」と誓ったのでした。(「ユダヤ発想の驚異―旧約聖書の英知と教え」実業の日本社、1972(昭和47)年、107~108頁。)
クリスチャンは、自分の生涯、身体、健康、すべてのものは神からのいただきもの、お預かりしたものと考えます。ですからいただいたお金も神様に感謝するのですが、それは「ねばならぬ」の掟の世界ではありません。「わたしは命令としてこう言っているのではありません」(コリント第2 8:9)。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(第2コリント9:7)。このパウロの言葉に示されるように、ささげものは掟ではなく各自の自由なささげものです。
これが教会の献金の意味だと思います。クリスチャンが献金をする、献金ができるということは大きな恵みだと思います。世の中の人は、健康もお金も自分のもの、自分が稼いだものと考えるのではないでしょうか。ですから、快楽のために○○億円も使ったりします。
新聞を見ていましたら九州大学に5億円以上の寄付をした人がいました。自分が勉強したかったのに十分できなかったから若い人のためを願って寄付をされたそうです(2018年6月25日「西日本新聞」)。尊いことです。広い意味での献金、感謝のささげものだと思いました。