【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2018年9月2日説教要旨
聖書箇所 サムエル記上 16章:1節-13節
これ其の人なり―ダビデの話
瀬戸毅義
ローマ帝国時代初期には、旧ギリシャ植民地ではギリシャ文化が主要な文化でありました。移住したユダヤ人は、公用語としてギリシャ語を用いなければなりませんでした。そのため旧約聖書(ヘブライ語)を紀元前4世紀頃からギリシア語に訳しました。70人訳聖書と呼ばれます。エジプトのアレクサンドリアで編纂されました。原典のヘブライ語のサムエル記はもともと上下の区別もなく一巻の書物でしたが、この時に上下に分けたのです。
サムエル記上下の内容は、サムエル、サウル、ダビデの伝記となっています。サムエル記上の半分は、ダビデの成長、修錬の記事であり、サムエル記下はダビデが王となって死ぬまでの記録です。サムエルは「シャム」「聞く」と「エル」「神」という言葉で、「神聞きたもう」の意味です。
「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。(16:7口語訳)
預言者サムエルが訪ねたエッサイの家には8人の息子がいました。ダビデはその末子でした。兄弟にも父親のエッサイにも疎んじられて野外で羊の番をしていました。しかし神が選ばれたのはこの末子でした。この末子は、後にイスラエル全地を治めてその民に公道と正義を行った理想の王ダビデとなります。末子ダビデは兄弟の中でも中に最もつまらない奴として何の注意も払われず、野外で羊の番をさせられていたのです。手足は汚れ服装も粗末だったことでしょう。しかしこの末子の心は純で信仰深くありました。
神はイスラエルの王としてこの価値なき(と思われた)若造を選ばれたのです。神の選択は実に驚きであり意外です。キリストも「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)と言われました。私たちがクリスチャンとして選び出されたのも思えば、神の深い一方的な恩寵によるのです。これこそ福音です。人を見るにはこのようにすべきです。私たちはややもすれば容姿、学歴、家柄財産などの外面を重視しがちではないでしょうか。これは大きな間違いです。
後にイザヤは、来るべきメシア(救い主)を次のように預言しました。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
(イザヤ書53:2-3 新共同訳)