【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2018年9月16日説教要旨
聖書箇所 サムエル記下 18章:31節-33節
人間 ダビデ
瀬戸毅義
ところが、今朝の箇所を読みましょう。これはダビデの宮廷のお家騒動の場面です。ダビデにアブサロムという子供がいました。「イスラエルの中でアブサロムほど、その美しさをたたえられた男はなかった。足の裏から頭のてっぺんまで、非のうちどころがなかった」(サム下14:25)とあります。その子が父ダビデに背いて謀反をしたのです。父の残念はいかばかりだったでしょう。
今朝の聖書は、我が子の最後を知り悲しむ場面です。アブサロムは美男子で黒髪の豊かな男でした。
「毎年の終わりに髪を刈ることにしていたが、それは髪が重くなりすぎるからで、刈り落とした毛は王の重りで二百シェケル(2・3キロ)もあった」とあります(サム下14:26 )。
このアブサロムの謀反軍とダビデの軍との間に激しい戦闘がありました。アブサロムは、戦いの最中に「彼はらばに乗っていたが、らばが樫の大木のからまりあった枝の下を通ったので、頭がその木にひっかかり、彼は天と地の間に宙づりになった。乗っていたらばはそのまま走り過ぎてしまった」のです(サム下18:9)。彼は追手に追跡され刺殺されました。父ダビデはその知らせを聞き人目をはばからず泣きました。これは人間ダビデの一面ですね。
- 「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です」(サム上16:18)とあります。勇壮活発な美男子であることに加え、音楽に秀で雄弁でした。しかも信仰的・宗教的でした。彼は自然に国民的ヒーローとなりました。
- いくさ(軍事)の才があり勇敢でした(サム上18:2-27、サム下17:8-10)。彼は総大将の器(うつわ)でした(サム下5,6章)。
- 「情の人」でした(サム上20章、サム下1:26)。ヨナタンとの友情はその好例です。
- 「情の人」「情にもろい」という彼の態度は、悪い面で我が子に甘くなりました。子供のアドニヤは父から、『なぜこのようなことをしたのか』ととがめられたことが、一度もなかった」のです(列王記上1:6)。女性に対しても同じでした(サム上25章)。部下ウリヤの妻バト・シェバへの態度はその適例でしょう(サム下11章)。「ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった」(サム下11:2)。女性の行為にしては不思議です。むしろ予想しての行為ではなかったのかとも推測できます。彼は誘惑に負け、更に恐ろしい罪を犯したのでした。
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ダビデにはこのように罪悪的な面がありました。過失も欠点もありました。ところがユダ人の伝統は彼を理想の王、来るべきメシアの型としました。彼が真実徹底した信仰の人であったからです。
絶望的な状況にもダビデは神に願い頼りました(サム上30:1-6)。困難な状況にも、「ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。」とあります。ダビデは自分が罪を犯したとき「わたしは主に罪を犯しました」と言いました(サム下12:13)。王座を離れて地に伏しました。神の前にへりくだりました。その態度に心を打たれます。 - どんなときにも、罰を受けるときでも、神に頼りました。「ダビデはガドに言った。大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない」(サムエル記下24:14 )。
これがダビデの信仰でした。人が罪を犯したとき、厳しく責めることが多いのではないでしょうか。私たちが罪を犯したとき、躓いたとき神に行かないで誰に行きますか。キリストに行かないで誰を頼るのでしょうか。神は悩む者、傷ついた者をご慈愛の中に受け止め、恩寵の中に包み込んでくださいます。神は私たちの弱さをご存じです。完璧を求められません。失敗しても、罪を犯しても、神に依りすがりましょう。神は決して私たちを捨てられません。
「見よ、主なる神はわたしを助けられる。だれがわたしを罪に定めるだろうか」。(イザヤ書 50:9)