【説教音声ファイル】
2018年10月14日説教要旨
聖書箇所 創世記:2章7節
我々は何者か
山田光道
主にある生き方を求めて,日々を生きている者にとって「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」、この深遠な問いは、人間が持ち得る最高のそして永遠の問いであるように思われます。人間だけが過去と現在と未来という時間の感覚を持ち、現在の自分を確認するのに過去の出来事をふりかえったり、まだ見ぬ世界を想像して今の自分を確かめようとする。そしてこの人間は動物としての本能に逆らってでも自分の生き方を求め、道筋を定めようとします。私達にとっては,馴染み深い良寛さんも「吾が生何処より来りて何処にか之く、独り蓬窓の下に坐し兀兀として静かに尋思す」とうたっています。その一方でこの人間は,いつも過去を思う時,後悔の念がこみ上げてきて,涙するような時が多々あります。そして現在の自分を考える時も,壁にぶつかり,限界を自覚させられます。聖書はこのような人間の発する問いに明確に「万物は神からいで、神によってなり、神に帰するのである」(ローマ人への手紙11章36節)と答えています。
この秋にどのようなことを皆さんは経験され、それを自分の生き方と関係づけて受け止めようとされているのでしょうか。たとえそれが困難を伴うものであったとしても、この出来事は「私にとって、私の人生にとって何か」を考えることができる生き物として私達人間は造られた。そしてこの人間は教育を受けて知っています。来年もまた同じように秋は巡ってくるだろう。しかし今年の秋は私の人生にとってたった一回きりの時なのだということを・・・。
自分に与えられた人生をしっかりと受け止め、自分に課した訓練を通して、私たちはかけがえのない人生を神様が備えてくださっていること、そして与えられている賜物と使命が自分にもあるということを自覚させられます。
創世記2章7節の「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」というみ言葉は「我々は何者か」を問いつつ、自分らしい人生の道を歩もうとする者に大切な示唆と生きる根拠を与え続けています。