【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2018年12月2日説教要旨
聖書箇所 創世記1章1節、使徒17章24節~26節
人生の着実な第一歩
瀬戸 毅義
私達は誰しも自分の生涯を着実なものにしたいと願っています。どうしたらそのような人生を送ることができるのでしょうか。天地万物をお造りになり今も私達を愛してくださる天の父である神をしることが何よりも大切なことであると思います。
二人の人物からそのことを考えて見ます。まず一人は新島襄(1843-1890)です。
1885(明治18)年「私の青春時代(My Younger Days )で、次のように記しています。「天父(神)」を知ったことは、新島襄のその後の歩みに大きな力となりました。
以前に勉強したオランダ語の本を通して、「創造主」 という名称は知っていたが、漢文で簡潔に書かれた、聖書にもとづく 歴史書で神による宇宙の創造という短い物語を読んだ時ほど創造主が 身近なものとして私の心に迫ってきたことはなかった。私は、私たちが住んでいるこの世界が神のみえざるみ手により創造されたのであって、単なる偶然によるものでないことを知った。そして同じ歴史書 において、神が「天父」とも呼ばれているのを知り、神に対していっそう畏敬の念を持つようになった。(大越哲仁「新島 襄の神学思想」)
もう一人は内村鑑三(1861-1930)です。内村鑑三は、青年時代から信仰心が熱くありました。以下は異教の神々を信じていた頃の回想です。
写真の説明:内村鑑三著、鈴木範久訳『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』岩波文庫、2017年。本書はもと英語で出版されました。原著はHow I Became A Christian: Out of My Diary. By Kanzo Uchimura 1895です。英語、フランス語、ドイツ語、デンマーク語、スウェーデン語、フィンランド語に訳されました。邦訳は戦前からのものとして鈴木俊郎訳(岩波文庫)が有名です。戦後は大内三郎訳(講談社)など数種類があります。
あまりにも多くの神々を満足させ、なだめようとして、私はいつの間にか落ち着きのない内気な子供になってしまいました。私はどの神にも共通する祈りを考案しました。各神社の前を通り過ぎるときには、当然、これに加えてそれぞれの神社にふさわしい特別の祈りをつけ加えました。毎朝顔を洗うとすぐに四方にある神々のそれぞれに、この共通な祈りを捧げました。日の出の太陽は、あらゆる神々のうちでは最高の神にあたるので、東方の神々には特別の注意を払いました。いくつかの社寺が隣り合って続いているところでは、同じ祈りを何度もくり返すのはきわめて厄介でした。それで私は、祈りを唱えるわずらわしさから良心の咎めなく逃れるために、社寺の数の少ない遠回りの道を選んだものです。拝まなくてはならない神々の数は、日増しに加わって、やがて、私の小さな魂では、すべての神々の気に入るようにすることは不同能だとわかるようになりました。(内村鑑三著、鈴木範久訳『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』岩波文庫、2017年)
しかし彼にとうとう救いが訪れました。彼は札幌農学校でキリスト教に入信したのです。以下はそのときの心の変化です。以下のように書かれています。
新しい信仰の実利はただちに私に明らかになりました。全力をあげて入信に抵抗していたころから、すでに私はそれを感じはじめていました。宇宙にはただ一つのカミしかなく、私かそれまで信じていたような多くの――八百万を越す――神はないことを教えられたのであります。キリスト教の唯一神信仰が、私の迷信の根を、すっかり断ち切ることになりました。私のなしたすべての誓いと、怒りっぽい神々をなだめるために試みたさまざまの礼拝形式とは、このただ一つのカミを認めた結果、いまや無用になりました。私の理性と良心はともに、これに「しかり!」と賛意を表したのであります。カミは一つであり多数でないことは、私の小さな魂にとり文字どおり喜ばしきおとずれでありました。もはや東西南北の方位にいる四方の神々に、毎朝長い祈りを捧げる必要はなくなりました。道を通り過ぎるたびに出あう神社に長い祈りをくり返すことも、もう要らなくなりました。今日はこの神の日、明日はあの神の日として、それぞれ特別の誓いと断ち物とを守らなくてもよくなりました。頭をまっすぐに立て晴れやかな心で、私はどんなに昂然と次々と神社の前を通り過ぎて行ったことでしょう。(前掲書)
更に、自立した成人にキリスト教が必要であることを、次のように記しました。
我々が基督教を必要とするのは、我々を強化するため、我々の神には忠誠を、悪魔に対しては敵対を誓うがためである。蝶の生命でなくて、鷲の生命である、ピンクの薔薇の小柄な完全ではなくて、オークのたくましい強さである。異教は我々の幼年期には役立つであろう、しかし基督教のみが成年期に役立つ。世界は成長しつつある、我々は世界とともに成長しつある。基督教は我々のすべてにとってなくてならぬものとなりつつあるのである。(内村鑑三著『余は如何にして基督信徒となりしか』、鈴木俊郎訳、岩波文庫、1969年
本書はキリスト教文学の古典です。私はいつも彼の著作から聖書の読み方やキリスト教信仰の尊さを教えられました。良き書物との出会いは生涯の宝だとおもいます。教会に来られる方々が良書と出会われ、聖書を一層深く学び生涯の糧とされることを心から願っています。