【聖書箇所】
【説教音声ファイル】
2019年1月20日
聖書箇所 ローマ人への手紙16章1節~5節
初代教会の一端
瀬戸 毅義
ここに信徒の名前が出ています。人の人名ですから、飛ばしても良いと思うかも知れません。そうではありません。聖書は一人一人を大切なものと考えるのです。
- 1節~15節に30人弱の名前があるが、3分の1は女性である。その他にも「母」や「姉妹」がある。奴隷か、解放されて自由の人となった者もいる。「家の者」は通常奴隷のこと。
- これらの人達は信仰の勇者であった。高官、富者、貧しき下層階級の者、奴隷、奴隷から自由民になった者(解放奴隷)であった。身分や生まれは違っていた。愛と信仰を持ち霊的に一致していた。主にあって一つであった。
- 彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。
家の教会・・・3世紀までは教会の建物も教職制度のなかった。信者の家に集まり信仰を持ったのである。どんな教会だったのでしょうか。J.B.Phillipsは「彼らの家の教会にも、よろしく。ロマ16:5口語訳」をGive my love to the little church that meets in their house と訳しました。感動を覚えます。きっと小さな家の教会だったのでしょう。
イエスを信じるクリスチャン達はその喜びのゆえに多くの困難の中で家の教会に集まりました。当時のローマ社会の中で彼らの存在は際だっていました。
当時の状況を考えて見ましょう。享楽的生活の社会でした。皆さんは映画などで古代ローマの社会を垣間見たこともあるでしょう。奴隷のいる社会でした。そのような奴隷制とクリスチャンのことを扱っているのがピレモンへの手紙です。いつか説教でお話ししたいと思います。人間に人権はありませんでした。また社会の道徳、倫理も乱れていました。パウロ時代のロマ人の生活が如何に享楽放縦(きょうらくほうしょう)を極めたものであったかを最もよく説明するものはナポリ郊外で発掘されたポンペイの遺跡です。パウロがロマ書を書いたのは紀元56、7年頃、ポンペイが灰に埋れて滅んだのは79年でした。パウロの頃はまだポンペイの町は盛んでした。
このような社会の中で、クリスチャンは道徳的、倫理的な生活をしました。教会には、人種や民族、奴隷と自由民、男女、国籍などの差別はありませんでした。初代教会の生き方は、多くの人々の注目を集め尊敬されました。現代の日本の社会にもこのような教会の集まりが求められています。道徳や倫理の面でも直言できる教師はいないのです。学校の先生も、教育学部の先生も学生・生徒にきちんと教えていない状態が現代の日本の教育ではないでしょうか。はっきりと「あなたを導くお方はイエス・キリストです。あなたを導く書物は聖書です」と教えることが大切ではないでしょうか。クリスチャンの責任、教会の責任は大きいと思います。
例話 Clark, William Smith(1826-86)と聖書
W.S.クラークは米国の教育者・宗教家でした。 1876 年来日し札幌農学校で教えました。翌年 “Boys, be ambitious.” という有名な言葉を残して帰米しました。
クラーク先生は札幌への赴任の途次、玄武丸船上黒田長官に懇請せらるるまでもなく、自分が手がけねばならぬ学生の徳育問題に関しては確固たる信念を持って居られたのであろう、携行された荷物の中には学生に分つべき英語聖書が数十冊秘められてあった。開校式がすんでいよいよ授業が開始せらるるや、その一冊一冊に生徒の姓名を記入して十六名の生徒に授け、正規の授業を始める前に平然と聖書の輪講(りんこう)を行われた。本来ならば官立学校で禁断の耶蘇教の経典を読ませるとは不都合であると生徒一同はいきり立つべきはずであるのに、この先生は非常に偉い方だという先入観があつたのと、先生のなされることの凡てが意表外なので、生徒たちは日々黙々としでその教えを受けていた。ところがこのことが頑固一徹で有名な耶蘇教嫌いの黒田長官の耳に人つたからたまらない。長官は早速クラーク先生を官邸に呼びつけてその不都合を詰問した。すると先生は聞き直り「これは異なることを承(うけたまわ)るものだ。あなたは赴任の船中で私に何を御託しになった。ご記憶にあるでしょうが、貴官を遠々アメリカから招聘したのは、学生に学問を授けるばかりでなくて徳育を施して戴きたいからだと仰せられたろう。私も同感であつたから御引受けしますと答えたのです。私がクリスチャンであることを閣下は百もご承知であろう。クリスチヤンには聖書を教える以外徳育を授ける道はないのであります。(下線は瀬戸)従ってそれがお気に召さないのならば私にはその大任は果せませんと、ズバリといい切った。黒田長官は元来青竹を割ったような清い心の薩摩武士であったので、クラーク先生の男らしい返事に共鳴し、「わかりました。それならば黙認することにいたしましよう。校内で礼拝は困るが聖書を倫理書として用いることは差し支えない。」と折れてでた。このことあって以来両者は肝胆(かんたん)相照(あいて)らす間柄となったが。後に学校視察にやつて来た黒田長官は生徒の勉強振りに感心し、一人当り二十銭宛の賞を与えた上にクラーク先生に向い、「あなたは私の希望する通りの人間 即ち国家に対して有益な働きをする人物を必ず造り出して下さることを確心する 今となっては宗教の如何(いかん)を問うべき場合でない どうぞ思う通りにやって下さい」と申されて、学生に徳化が及んでいるクラーク先生の人格に敬意を表された。
(大島正健著『クラーク先生その弟子たち』。昭和33/1958年。宝文館、95頁~96頁。)