【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2019年3月17日説教要旨
聖書箇所 マタイによる福音書26章47節~52節
裏切りのキス
梅木 光男
まもなく2018年度も終わり、新しい年度を迎えようとしています。またイースター直前となり「終わりと始め」のときとなりました。本日はマタイ福音書26章から弟子であるイスカリオテのユダが主イエスを「裏切りのキス」により十字架刑へ導く出来事から取り上げました。
ここの箇所はイスカリオテのユダが銀貨30枚(概ね奴隷一人分相当)で主イエスを裏切り捕縛しようとする有名な場面ですが、役人たちは誰がキリストかどうかわからないため、事前の打ち合わせどうり「我が師よ」と言いながらキリストにキスをするドラマチックな箇所です。
彼の計略の合図となった「ユダのキス」という言葉が後に裏切りを意味するようになったのはこの話しに由来するのです。表面的にはいかにも親しそうに、しかし、心は大変な裏切りを秘めていたからです。役人たちはこれを合図にキリストを捕らえようとした瞬間、弟子の一人が役人の耳に切りかかりそいだという事件が起こります。
すると主イエスがあの有名な「剣を取るものはみな剣で滅びる」と宣言されるのです。
この言葉は今日でも切実な意味をもっています。過去の歴史を振り返っても武力によって一時的に解決しても勝者にも敗者にもホントの解決にはならないことが証明されています。過去何度も戦争を繰り返し悲惨な結果をもたらしたにも関わらず、その愚行を省みようともしない我々の罪が明にされています。
主イエスはこうした我々の罪を「十字架刑」と復活によって購われるという大きな「愛」を示されようと覚悟されるのです。しかしこのときは誰も主イエスの御心を理解するものがいなかったのです。
自分自身が絶対に正しいと考えたユダ。神の業と御手に徹底的に従った主イエス。ここに大きな差があったのです。我々は、自分自身はイエスを裏切ることはないと思い込んでいるのではないでしょうか?我々の姿をこのユダに投影することこそ主イエスの赦しと愛に応えることになるのです。