【聖書箇所】
【説教音声ファイル】
2019年3月31日
聖書箇所 コリント人への第一の手紙 12章 12節~14節
神の教会
瀬戸 毅義
旅をしているとき、見知らぬ町にいるとき、十字架の塔がある教会を見ると何となくうれしい思いをしたことがないでしょうか。わたくしは外国の旅でも、宿泊の日が日曜なら、土地の教会に出席するようにしました。教会の存在は大きいのです。私たちの教会も原田の地に十字架を掲げています。教会はそこでいつでも、無言のうちに神の存在を示し神の愛を教えているのです。
今日の礼拝は今年度最後の礼拝です。教会」について考えてみましょう。教会の原語「エクレシア」は本来「信じた人々の群れ」(使4:32)、すなわちキリストに対する信仰により、キリストの救いに与り、世の人々から区別され神の子とせられた人々の群れを意味します。その群れは民族的に限定されません(ロマ1:16)。また人間の知恵や権力にも拠りません(コリント第一 1:26-28)。
教会は「神の畑」「神の建物」(コリント第一3:9)とも記されます。教会が目指すもの・その目的は何でしょうか。
①礼拝は教会の基礎であり土台であります。礼拝はキリスト信徒の神への信仰の応答であり、またキリストが私たちのために成し遂げてくださったことへの感謝の応答です。教会の週ごとの礼拝は礼拝のすべてではありません。礼拝はキリスト信徒のこの世の生活のすべて、他者との交わり、生活の行いの全体です。クリスチャンは礼拝を守ります。大切にします。「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。」(出13:21)とあります。クリスチャンは、日々神を仰いで、礼拝して、神から力と導きをいただいて進むのであります。
②キリスト信徒各自の健全な霊的・信仰的成長であります。「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」(ロマ12:2)とあります。信仰を一層深く学び自分のものとしなければなりません。様々の思想や宗教があふれているいる現代です。日本のキリスト者は少数ですから、自らの信仰を問われれば説明できるように勉強しなければなりません。例えば、仏教とキリスト教、神道とキリスト教の違いなどを説明できるでしょうか。キリスト教の救いとほかの宗教のそれとはどのように違うのでしょうか。クリスチャンは社会的な問題、政治的なことがらにどうかかわるのでしょうか。キリスト教には、信仰の告白としての使徒信条があります。このようなことも知る必要があります。
③教会は福音の伝道を進めることにより、いまだキリストの愛を知る必要のある人々にイエス・キリストを分かち合います。教会は自己のためにあるのではなく、他者のためにあります。神の愛を知っていただくために福音の伝道に努めねばなりません。
以上の三つは教会が目指すものであり、何れも等しく重要であります。
聖書の言葉に、 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである(コリント第一3:6-9)とあります。
教会はキリスト信徒のあつまりであります。各自がそれぞれいただいた賜物、能力、才能をささげておられます。しかし、各自を成長させてくださるのは神様です。教会の役員の働きを思います。感謝に耐えません。そのほか、聖歌隊で時間と能力をささげておられる方々、お花の手入れをしてくださる方々、食事の用意をしてくださる方々など多様です。録音やHP関係のことをされる方々もおられます。
いつもかわらず礼拝を守られ、祈りをしてくださる一人ひとりもそれぞれ変わらず尊いことです。このように教会は多くの信仰の方々にささえられているのです。今日は、2018年度の最後の礼拝ですから特にこのようなお一人、お一人に感謝したいのであります。新しい年もそれぞれの方々に感謝し、そのお働きを覚えて祈りたいのであります。