【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2019年4月21日説教要旨
聖書箇所 ローマ人への手紙 5章1~11節
いのちの道を行く-希望に生きる
大野 惠正
キリストが復活された。このことに勝る大きな出来事はこの世界にはありません。
なぜならキリストの復活は、私たちの命が死を持って終わってしまうのでなく、キリストの復活の命に肖らせていただく永遠のいのちの道へと、進ませていただけるのだということを示すからです。
島田修二という歌人に、「家というかなしみの舟成ししより、人は確かに死へと漕ぎゆく」という短歌があります。家庭を構え、家を作り、さてその先は、死に向かって人生を漕いでいくのだ、というのです。人生を神なしに定めるときに、わたしたち人間が自分の人生に見つめるのは、島田さんが見ているとおりのもだと思います。
しかし、神さまはそうした私たちに、まったく想いを越えた、人生を用意して下さったのですし、私のために、用意して下さっているのです。その鍵となるのがイエス・キリストの復活です。
神さまは神さまのことを考えないで、ぼぉーっと生きている私たちの不信仰を許して下さり、神さまの方を向いて歩むようにして下さるのですが、神さまとの交わりの中に生きる者を、いのちの道を生きる者とさせてくださるのです。それは私たちの行く先に死が待っているのでなく、永遠のいのちが待っているのだというです。そしてそれはこの世にあるときから始まっているものなのです。したがって神さまは、死をもって人生は終わるのでなく、死を超えて、神さまの与えて下さる永遠の世界に生きる希望をお与え下さっていると言えます。
そのような人生がほんとうにあるのでしょうか。使徒パウロはその証人ですし、ついこの間まで、この礼拝に出席して私たちとした親しく交わった光武常博さんもその証人です。
私たちと一緒に礼拝した光武常博さんが、私たちのもとから御国へと移される人生最後の日々はまことに見事なものでした。クリスマスを終えての数日後、瀬戸先生に誘われて、光武さんの病床をお訪ねしました。その後十日もしないで世を去るなどとは考えられないほど、光武さんは生き生きとしておられました。わたしは光武さんが音楽が好きなことをよく知っていましたので、祈りのあと、讃美歌を独唱しました。「エッサイの根より」です。歌い終わると,何ということか、光武さんがそれに続いて、讃美歌を歌われたではありませんか。それも力強くです。わたしはとても感動しました。祈りと讃美をもって主を告白するのが、私たちの命です。光武さんは、病床でも生き生きとしていました。その秘密は光武さんが十字架による罪の赦しと、キリストの復活に対する確信を抱いていたからです。わたしは自分が死ぬときも,光武さんのようでありたいと願っておりますし、その信仰を持ち続けたいと願っています。そして神さまは、そうして下さるのです。
私が存じ上げている歌人に益富照子さんという方がいます。ある教会の長老をなさったかたです。その益富さんはこう歌われました。「豊かなる恵み満ちみつ天地に、われ生きてありきわれ生きてありき」とです。そうです。この歌が歌えることがキリスト者が与えられる恵みなのです。「死に向かって漕いでいく舟のような人生」でなく、恵み満ちみつるいのちの道を、歩みませんか。神さまはそうあって欲しいと願っておられるのです。