【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2019年5月12日説教要旨
聖書箇所 ペトロの第1の手紙 5章6~7節
思い煩いからの解放
大野 惠正
母の日ですね。先日ブラームスのピアノ曲を聴いていた時、母のことがこみあげてきました。母が召されてから40年近くたつのですが、母にはすいぶんかわいそうなことをしました。
源実朝の歌にこういうのがあります。
いとほしや見るに涙も止まらず、親もなき子の母を尋ぬる
戦乱の世、父親は戦に駆り出されて戦死してしまう。母親は何とか夫の留守を守ろうとするけれども、極度の栄養失調でついに死んでしまう。取り残された子どもが、おかあちゃんはどこに行ったのと泣いているのです。実朝はそのような光景を見たのでしょう。親が亡くなっていくら親を慕っても、親はもういない。母親が未だ生きておられる方は精一杯、親に尽くして下さい。「あなたの父と母を敬え」と聖書は命じているのです。
しかし、親子の関係、夫婦の関係、職場での人間関係、隣近所との関係には、誰しも悩みを抱えているのではないでしょうか。不思議なものでどうでも良い人との関係で、私たちは悩まない。親子の関係や、夫婦の関係のように本当に大事な関係であればこそ、悩む。そしてその近しい人間が側にいる人であるだけに悩みは強くなる。思い煩うのですね。場合によっては、ああ、お舅さんがいなければどんなによいのに、と煩うことがあるのです。
そんな思い煩いにある私たちに、今日神さまは、思い煩うことは何もかも神さまにお委ねしなさい、と言われるのです。委ねるとは、思い煩うことがあるならあるままに、そっくり自分を神さまに委ねてしまいなさい、ということです。あなたの思い煩っていることをそっくり、わたしに委ねてしまいなさい、そう神さまは言ってくださるのです。
どうしてか、わたしのすべてをこの方は心にかけていて下さるからです。
神さまが心に掛けて下さっていることほど心強いことはありません。もしいま本当かなとあなたが思っておられるなら、あなたの神は小さすぎるのです。神さまはでっかい方です。途方もなく大きな方です。神さまを小さく見くびってはなりません。神さまほどに大きな方は、この宇宙にはおられないのですから。わたしがすべきことは、一生懸命御国に行こうとすることではないのです。聖書はこう言っています。
5:6「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。」
自らを低くするとは、謙虚になることです。謙遜になることです。私たちはともすれば頭が高くなりやすい。そうしてはいっぱしのものであるかのように自分を感じてしまうのです。しかし、神さまの前にあって大切なことは「謙虚であること」です。謙虚に生きれば、「時が来れば」とは、頃合いの時、わたしが召されるとき、神が高くしてくださると聖書は語ります。高くするとは、神さまが愛でてくださると言うことです。だから思い煩う必要はないのです。神さまの方で、気にかけていてくださる方です。思い煩いそうになったら、神さまにお任せしましょう。そして両親がいるならば謙虚に両親に向き合い、厄介な知人がいるならば、謙虚に向き合うことを心がけましょう。肝心なのは、すべてのことに謙虚であることです。