【説教音声ファイル】
2019年6月2日説教要旨
聖書箇所 ローマ人への手紙2章28~29節
天の父に依怙贔屓なし
瀬戸 毅義
ロマ書1章には異邦人の罪について厳しく書かかれています。ここを読むと神を知らず偶像を拝んでいることの恐ろしさ、罪を犯しながらもそれをも知らず無感覚になっている人間の有様を知り恐ろしくなります。
ロマ書2章にはユダヤ人の罪が述べられます。ユダヤ人は、パウロが異邦人の罪を指摘するのを聞きながら「自分たちはモーセの律法を持っている、割礼を受けている、神の選民なのだ。罪びとの異邦人とは違うのだ」と密かに心に思ったことでしょう。
ここで読み方を少し変えてみました。ユダヤ人をキリスト教徒(キリスト教国の国民)、異邦人をノン・クリスチャン(非キリスト教国の国民)と考えてみます。モーセの律法は聖書、割礼はバプテスマ(洗礼)と思ってください。そのうえでパウロの言葉を聞きましょう(ロマ2:6-11)。今朝の説教題は「天の父に依怙贔屓なし」です。天の父は真の神様のこと。
神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。
内村鑑三(1861/文久1-1930/昭和5)は今から100年以上も前にキリスト教の国(アメリカ)の光と影を記しました。一つ二つ挙げてみましょう。聖書の言葉が日常生活で不謹慎に使用されること。例えばJesus (Christ)! としてへーえ, やっ, 大変だ, うーむ, 驚いた, こんちくしょう, くそ《不信・狼狽(ろうばい)・恐れ・失望・苦痛などを強く表す。God damn you! こん畜生、などです。[研究社 新英和大辞典第6版] アメリカ上陸後ほどなく日本人の一行は5ドル金貨入りの財布をスラれたので「アメリカにもスリがいるぞ」とお互いに注意しました。500万の人口を持つニューヨーク州は4千万人からなる日本よりも人殺しが多いことなどです。これらはキリスト教国の影の部分です。異教国の日本はもっと平穏で静かではないか。
バプテスマ(洗礼)を受けた、聖書の言葉を知っていると申し開きをしても行いがなければ役に立ちません。頭や口ではなく実行実践です。
異邦人の道徳律
異邦人はモーセの律法を有(も)たないけれども、人間としての本性に基づき律法の命ずるところと同趣旨の道徳律が自己の心に宿されていることを知っている。又自己の良心は、何が善であるか何が悪であるか、又善を行い悪を行うべからざることを直観的に証明している。かつ自己の思索の働きにより、自己の行為に対して常に反省検討を加え、これは義(ただ)しくなかったであろうか、義しくあったであろうかという道徳的判断を下している。即ち異邦人に対しては、この自然法ともいうべき道徳律が、ユダヤ人に対するモーセ律と同様の働きを為しているのでありまして、いやしくも道徳を標準として見る限り、ユダヤ人たると異邦人たるとを問わず、すべて道徳を完全に行うや否やによって、義とせられるか否かを審かれるのであります。
(矢内原忠雄「ロマ書講義」。聖書講義Ⅲ、岩波書店、1978)
若き日の日記から。1884(明治17)年―米国にて
家は、まるで泥棒の霊が隅々まではりつめているかのように、玄関から針箱まで鍵がかけてあります。我が国(註・日本のこと)には「火を見たら全財産を焼失させる火事と思え。人を見たら持物を全部奪う泥棒と思え」と疑い深い人から言われるような諺があります。しかし、この教えが字義どおりに最もよく実行されている所は、鍵のよくかかっているアメリカの家庭なのです。それは、現代の盛んな欲望に対してそなえられた封建領主の小型の城であります。セメントで固めた穴蔵や石造りの地下金庫を必要とし、ブルドッグや警官隊で守られる文明が、はたしてキリスト教文明と呼ばれてよいのか、単純な異教徒にとってはおそろしく疑問なのです。
(『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』内村鑑三著 鈴木範久訳 2017年 岩波文庫)。