【説教音声ファイル】
2019年8月18日説教要旨
聖書箇所 哀歌 3章35~42節、3章22~25節
終戦記念日を忘れない。
瀬戸 毅義
8月15日(木)は終戦記念日でした。戦争が終わった時(1945年8月15日)5歳でした。金沢市郊外の国見(現国見町)という小さな山村の8人家族でした。子供にとっては終戦(敗戦)がどういうことなのかを知ることはできませんでした。牧師となり、40歳でキリスト教学校の教員になり、少しずつその意味を知ることができました。日本人の一人として、どうしてこの日を忘れることができましょう。
哀歌は日本語聖書ではエレミヤ書に次に置かれています。しかしヘブル語原書では全く違います。エレミヤ書は第2区分中にありますが、哀歌は第3区分(諸書・ケスビーム)に収められています。巻物・メギロースの第三番めの書物です。巻物(5巻)とは雅歌、ルツ記、哀歌、伝道の書、エステル記のこと。哀歌はエルサレム滅亡の記念の日に用いられました。正確には第一神殿は紀元前586年にバビロニア軍により破壊されました。第二神殿は西暦70年にローマ軍により破壊されました。哀歌は紀元前586年のエルサレム滅亡の後ほどなくして記されたものでしょう。ユダの人々は、シオンの山にヤーウエの優寵を誇りましたが、一朝にして異邦人に蹂躙されたのです。シオンの都は灰燼に帰してしまいました。国民のプライドであった貴族階級の人々も知識階級の人々も異国バビロンに移されました。昨日に変わる今日の変化はあまりに大きいものでした。この国家滅亡の大事件を見た時の悲しみを表わしたのが哀歌の内容となっています。
哀歌に記されたエルサレムの滅亡、ユダ国家の滅亡と日本の敗戦を簡単に比較することはできません。日本の国土と首都の東京は残りました。また主だった指導者が異国に連行されることもありませんでした。それにしても先の大戦の爪痕は大きいものでした。
今日では,日中戦争期をふくめて戦没者310万人余,その内訳は,軍人軍属230万人,沖縄住民をふくむ在外邦人30万人,内地での戦災死者50万人という数字が一般によく引用されます。平和の礎(いしじ)は、沖縄県糸満市の平和祈念公園内に設置されている慰霊碑です。24万1,525人(2018年6月1日現在)の名前が、敵味方関係なく刻まれています。
終戦記念日の8月15日前後の新聞・テレビなどをみてもその取り上げ方が不十分のように思われるのです。軍隊ならば上官・指揮官に責任を帰し、国ならば軍部、政府に責任を帰すという取り上げ方が多いように思えます。結局は他人の責任にし、個人にまで及んでいません。一クリスチャンとして考えるならば、そういう政府を支えたのも、もとをたどれば一人ひとりの国民です。軍隊ならば、そういう非人間的な軍隊を作り上げ存続させたのも国民各自ではなかったでしょうか。
現在の国際関係でも相手にたいする優しい心、思いやりの心が必要です。思いやりの裏側は自らの謙虚さです。きちんと主張することは勿論大切だと思いますが、思いやり(謙虚さ)が求められます。例えば日本の終戦記念日は韓国では光復節(クァンボク)といいます。ともかく相手の国を認めることが大切ではないでしょうか。日本にも四海兄弟という言葉がありますが、クリスチャンにはどの国もみな兄弟姉妹です。すべての人類はみな主にある兄弟姉妹です(使徒言行録17:26)
最近では日本を強く批判した韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領の表現が、日韓間の新たな火種になっています。「賊反荷杖(ジョクパン・ハジャン)-泥棒が罪もない人にむちをふるうという四字熟語、が「盗っ人たけだけしい」という訳になりました。別の訳では「開き直って」となるそうです。こちらの方がやわらかい印象を受けます。一つの言葉の翻訳にも思いやりがあればと思いました。
聖書の言葉を読みましょう。
われわれは、自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう。われわれは天にいます神にむかって、手と共に心をもあげよう。わたしたちは罪を犯し、そむきました、あなたはおゆるしになりませんでした。(哀歌 3:40-42)
もう一度聖書の言葉を聞きましょう。
主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。
主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。(哀歌3:25、30-31)
神は心から悔いた人も国もそのままに捨ておかれません。必ず助けてくださいます。
ここに聖書からの励ましと希望があります。
終戦の日を忘れないため、今年は『きけわだつみのこえ』をもう一度読みました。本来であれば平和に生きていたはずの若者が、逃れようのない死と向き合ったとき、どのように感じたのでしょうか。背筋をピンと張らせてくれる本だと思います。まじめな若者たちが死んでゆきました。故光武常博兄の父上はフィリピン沖で戦死されたと聞きました。父上が戦死されたので、光武兄は母上と戦後非常な苦労をされました。
『きけわだつみのこえ』日本戦没学生記念会編 より抜粋。
渡辺 崇(わたなべ たかし)
東京巣鴨高商学生。
昭和18年10月横須賀武山海兵団へ海軍予備学生として入団。
19年10月 レイテ島沖にて戦死。没年不明。
もう何時(いつ)お逢い出来るかと考えると悲しみの気持は苦しさに変り、寂しいやるせない心で沈潜するよりほか、仕方がないのです。
あんなにも僕には豊富であり、ある時にはすべてであった貴女、苦しい通学生活にも希望と歓喜を与えてくれた貴女。
僕は戦いに征(ゆ)く前に心から貴女に感謝したいのです。
苦しさも空虚な悲しさも今は銀の小函にそっと秘めて男らしく出発したいと思います。
けれども常に貴女のあの清らかな美しい眸(ひとみ)を感じることはもちろんです。それが僕にとってただ一つの思い出なのですからふっつりと忘れ去るなんて芸当は僕にはとても出来ません。
僕と貴女とのことは神をのぞいて誰れも知らないでしょう。それでよかった! それでこんなにも美しく悲しい想い出となることが出来たのです。
あんなにも僕を甘やかせ可愛がって下さった君——
貴女は僕の御母様みたいだった。たった一度あなたの真剣なきつい眼差(まなざし)に逢ってびっくりしたことがあった。
あなたの様々(さまざま)な表情—笑顔や睫毛(まつげ)をけわしく伏せてツンとしていった顔や、真面目くさって通り過ぎていった時のことや、今はもう楽しく懐しく悲しい想いで一ぱいです。
どうか情けない不甲斐(ふがい)ない僕だと叱らないで下さい。あんなにも思っていた事がペンを取るともうせっぱ詰った噎(む)せるような悲しみばかりが胸を覆って何にも書けなくなってしまうのです。
けれども僕の心の中の文章は神様だけがふっくらとした貴女のあの白い胸に伝えて下さるでしょう。
今の場合、僕にはこう考えるよりほかに方法がないのです。 さようなら僕のローズスーリ、ああもう永遠に逢う事は出来ないでしょう。―入団前夜記すー
瀬田万之助 東京外国語学校卒業。
昭和18年12月入営。20年3月ルソン島にて戦死。21歳。
この手紙、明日内地へ飛行機で連絡する同僚に託します。無事お手許に届くことと念じつつ筆を執(と)ります。
目下、戦線は膠着状態にありますが、何時大きな変化があるかも知れません。・・・・
生死の境を彷徨(ほうこう)していると学生の頃から無神論者であった自分が今更のように悔まれます。死後、どうなるか? といった不安よりも現在、心の頼りどころのない寂しさといったものでしょうね。
その点信仰厚かった御両親様の気持が分るような気がします。何か宗教の本をお送り願えれば幸甚です。・・・・・
マニラ湾の夕焼けは見事なものです。こうしてぼんやりと黄昏時(たそがれどき)の海を眺めていますと、どうして我々は憎しみ合い、矛(ほこ)を交(まじ)えなくてはならないかと、そぞろ懐疑的な気持になります。
避け得られぬ宿命であったにせよもっとほかに、打開の道はなかったものかとくれぐれも考えさせられます。
あたら青春をわれわれは何故、このような惨めな思いをして暮さなければならないのでしょうか。若い有為(ゆうい)の人々が次々と戦死していくことは堪(たま)らないことです。
中村屋の羊羹が食べたいと今ふっと思い出しました。
またお便りします。このお便りが無事に着けばいいのですが……
兄上、姉上、そして和歌子ちゃんにくれぐれもよろしく。早々不一
戦前戦中にクリスチャンであった矢内原忠雄の言葉に、いつも私は深い示唆を受けます。
「日本のゆくえ」
多少歴史を学んだ者は、大きな戦争の終ったあとには必ず平和論が出るが、何年か経過する中に国際情勢が変って、国民はまた軍備をし、そして戦争することを知っている。これは何度も人類がこれまでに繰返して来た事なのです。しかるに第二次大戦が終ってそのあとで、知識階級の平和論や平和署名連動でもって国際情勢の変化を食い止め、再び戦争のない世界を造り上げると考えることは、歴史を知らない考え方であります。戦争がもう一度起ったら大へんだ。それは当然。誰でもそう思う。これを止めなければならない。しかし戦争は、議論や運動で止まるものではないのです。戦争には深い根拠かあるのであって、即ち罪が人問に宿ることによって戦争は行われる。ただ戦争が嫌いだとか、損だとかいう感情論や打算論でもって、戦争は止まるものでありません。なぜ人類は戦争するか。戦争はいけないものであるということは誰でも皆承知しておる。知っているに拘(かか)わらず、戦争をなぜするか。それは人の心に罪が宿るからである。署名運動などで食い止められるものではない。戦争の原因の根強さをよく知り相手を知っての上での平和論ならば、これは時代が変っても消え失せない平和論であります。
昭和27/1952年。東京神田教育会館における内村鑑三記念講演の一部。