【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2019年9月15日説教要旨
聖書箇所 出エジプト記20章1~17節
我の外何物をも神とすべからず
瀬戸 毅義
2019年9月1日(日)の宣教(説教)は「バプテスマ(洗礼)-新しい命に生きるため」ロマ6:1-6)でした。「バプテスト教会員必携」(1958/昭和33)について触れましたが、そこには十戒が明記されていました。十戒は教会に来ておられる方々はみなご存じの内容でしょう。聖書は偉大な書物ですね。旧約聖書が西洋文明に供与した功績は多大のものがあるでしょう。中でも十戒と monotheism(唯神教[論],一神教)は、二つの偉大な貢献です。
クリスチャンは常日頃、聖書の豊かな内容に親しむことができるので幸せです。特に現代日本の状況で青少年に確固とした道徳倫理の基本を教えなければなりません。多感な青春の頃の心は、右に揺れ左に揺れます。純粋であればあるだけ、誘惑にさらされることも大きいのす。中高でも大学でも生徒学生に人生の土台の教えを確信を持って教える教師が必要です。ここにキリスト教会、キリスト教主義学校の果たすべき責務があると思います。
十戒(20:1-17)はヘブル語で「十語」として知られ、その原型は二語から成る十の短い句で石の板に刻まれました。最初の前半は(20:1-11)は神に対する戒めです。後半(20:12-17)は人に対する戒めです。20:1—17から十戒を抜き出せば以下のようになります。十戒は記憶しやすく、また力強く簡潔です。まことの神は単なる抽象的観念ではありません。また虚構のつくり話でもありません。天地万物の創造者であり、正義をもってすべてを統べ治められます。神の祝福は十戒を守る個人にも国にも家庭にも豊かに与えられます。十戒は旧約聖書の中心・絶頂ともいうべきものです。イエスは律法の全体を以下の二つに集約されました。(マタイ22:37、39)
- あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申6:5)
- 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:18)
20:03 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
20:04 あなたはいかなる像も造ってはならない。
20:07 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
20:08 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
20:12 あなたの父母を敬え。
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。
20:16 隣人に関して偽証してはならない。
20:17 隣人の家を欲してはならない。(新共同訳)
20:3 汝我面(わがかお)の前に我の外何物をも神とすべからず
20:4 汝自己のために何の偶像をも彫むべからず
20:7 汝の神ヱホバの名を妄(みだり)に口にあぐべからず
20:8 安息日を憶えてこれを聖潔(きよく)すべし
20:12 汝の父母を敬え
20:13 汝殺すなかれ
20:14 汝姦淫するなかれ
20:15 汝盗むなかれ
20:16 汝その隣人(となり)に對して虚妄(いつわり)の證據(あかし)をたつるなかれ
20:17 汝その隣人の家を貧(むさぼ)るなかれ (文語訳/明治訳)
今朝は時間の関係もありますので、十戒の総論ではなく、いくつかのことにのみ触れます。まず以下の言葉です。「・・・・あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう」(20:5-6 口語訳)
この言葉の意味を考えましょう。神の与えたもう罰は3,4代であっても、恩恵は千
代であります。恩恵が何十倍も多いのです。まことの神は決して残酷なお方ではありません。第2戒後半のこれらの付言は、むしろ神の審判が有限であるのに対し、その恩恵は無限であることを教えています。
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから(英訳for I the LORD thy God am a jealous God)。ねたむ神(口語訳)、嫉む神(文語訳)熱情の神(新共同訳)などと訳されています。神がねたむとは「何とミズクサイ」と思う人もいるでしょう。しかしねたみは愛の集中なのです。余りに強く愛するが故です。まことの神のねたみはまことの神の熱心さです。万軍の主の熱心がこれをなされるのである(イザヤ9:7)。
次に「20:08 安息日を心に留め、これを聖別せよ」です。
「七日毎に一日を無為に過ごせば、人生の7分の一を失うことになる」(ローマのストア派の哲学者セネカの言葉)。「安息日はユダヤ人のさもしい習慣(sordid habit)である」(ギリシャの歴史家プルタルコス)。反ユダヤ主義だったローマの歴史家タキトゥスは「安息日はユダヤ人のもう一つの気味が悪く恥ずべき習わしである(sinister and shameful custom)」といいました。このような古代世界の中で、働かないで人間の尊厳を示そうとする安息日を守り抜くことは決して簡単なことではありませんでした。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。(出エジプト20:9-10)
1800年代の後半、ペンシルバニアのホームステッドの製鋼工場では週七日、1年363日働きました。休みはクリスマスと7月4日だけでした。日本にも「月月火水木金金」という戦時歌謡がありましたね。3000年以上も前、聖書の十戒では、家畜にも奴隷にも他国人にも休みを与えました。「ユダヤ人が安息日を守ってきたが、それ以上に安息日がユダヤ人を守ったのである」とは、シオニスト哲学者Ahad Ha’am の言葉ですが味わうべきです。
最後に 「殺してはならない」についてです。英訳聖書でYou shall not kill.(KJV)としたのが不正確でした。 Thou shalt not murder.(Orthodox Jewish Bible他)とすべきでした。Kill とmurderは違うのです。日本語の「殺す」は次の 2 点で英語の kill と異なります。 「殺す」は意図的であるのに対して, kill は意図的, 非意図的を問わず生命を絶つことをいいます。 たとえば, He was killed in a traffic accident. の kill は「彼は交通事故で殺された」と訳すのは適当ではなく, 「彼は交通事故で死んだ」が普通でしょう。 この kill は死因が病気などではなく, 外的原因であることを示しています。 〈人が〉〈人〉を(意図的に)殺す;〔法〕謀殺する、英語ではっきりと意図的殺人を意味する語は murder です。(研究社「新英和大辞典第6版」)
自己防衛・正当防衛(self-defense)における殺人はここでは含まれません。その人が何ら死ぬべき理由もなく、また攻撃もしていないのにその人を殺すならmurderです。