【説教音声ファイル】
2019年9月29日説教要旨
聖書箇所 マタイによる福音書5章4節
「悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。」
悲しみの向こう側には
西南学院大学神学部教授 才藤 千津子
私の専門分野は、宗教心理学や牧会心理学、ですが、その中でも「死」や「喪失体験」、いわゆる「悲しみ・グリーフ」と言われているものが専門です。これは20世紀後半以降、急速に研究が進んだ分野です。日本では、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災と次々に大災害が襲った時に、家族や家を失うなど大きな喪失体験をした人たちを支援する要求が出てきたことから、「グリーフ」とか「悲嘆」「グリーフケア」と言った言葉が広まりました。
マタイ5:4では、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」とイエスが言われたとあります。この「悲しむ」ということばは、原語であるギリシャ語では、人が亡くなった時のような最も強い悲しみを表現する言葉です。イエスの時代には、人々は貧しく、医療は発達していませんでした。平均寿命は30歳まで行かなかったし、生まれた子供の半分は子供のうちに亡くなってしまったとも言われます。イエスの周りでは、人々が死んでゆき、家族が悲しみにくれるというのはどこでも見られた風景だったのでしょう。
そんな人々にイエスはこう言われました。「悲しみにくれている者たちは幸いだ。その彼らをこそ、神は無条件で慰められるのだから。彼らをそばに招き寄せ、しっかりと寄り添われる、そしてその人たちには喜びが与えられる。」
喪失や悲しみは、欠くことのできない人生の一部です。私たちの人生はある意味で別れと喪失体験の連続であり、生きている限り喪失を経験することは避けられません。私たちが愛するものや人を失って、苦しむこと、嘆き悲しむことは、全く人間的なことです。
しかし、嘆き悲しむことが誰にとっても避けられないことであり、もし苦しむことが全く人間的なことであるならば、私たちが考えなければならない問いは、『なぜわたしたちはこれほどの苦しみに会うのか』ではなくて『誰が私たちとともに苦しんでくれるのか?』というものではないでしょうか。なぜならば、悲しみのどん底にある時に私たちが心の底で最も恐れていることは、実は、孤独の中に声をかけてくれる人もなく、一人ぼっちで真っ暗な中に見捨てられることだからです。
聖書が証言する神は、悲しみの中に私たちを見捨てておかれることはありません。イエスの生と死と復活の出来事は、神は私たちの苦しみや悲しみに無関心な神ではなく、ともに私たちの痛みを担い、苦しんでくださる誠実な聴き手であり慰めの主であるということを示しています。そして私たちは、私たちとともに苦難を負って下さる神に従う限り、お互いの悲しみをも負い合い支え合うことができるのではないでしょうか。