【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2019年12月1日説教要旨
聖書箇所 イザヤ書6章8~10節
無理な召命
瀬戸 毅義
今朝司会者の方に読んでいただいたのはイザヤ書の有名な聖句です。教会に来ておられる方々はどこかで何回もお聞きになられたことがあるでしょう。イザヤは預言者でした。預言者はイスラエルに存在した一種独特の人達です。イザヤ書には有名な言葉がたくさんあります。以下はその一部です。
- 「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。6章8節。
- 見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。7章14節。
- あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ」40章1節。
ヘンデルはこの聖句を「オラトリオ メサイア」の冒頭のことばに選びました。 - わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。46章4節 など。
今朝の箇所は、イザヤが神から使命を果たすよう召された場面です。召命(しょうめい)ともいいます。預言者や聖職への召命のほか、ルターの宗教改革以降は、召命は一般の職業へのそれにも言われるようになります。(vocation イギリス・Beruf ドイツ)。
イザヤが預言者として召しを受けた時は20代前半の青年でした。キリスト降誕約740年前のこと、神殿の中で聖なる神のまぼろし(異象)を見ました。聖なる神のころもの裾を見ました。罪を示されました。預言者として神から召しを受けました。しかしその内容は理解できないようなことでした。
今朝は召命ということについて聖書から聞きたいと思います。
ときにわたしは主が語り給うみ声を聞いた、「わたしは誰を遣(つか)わそう、誰かわれらのために行くか」と。
わたしは答えた、「はい、わたしがここに。わたしをお遣わしください」と。
主が言い給う、
「行け、この民に語れ、『君たち繰り返し聞け、しかし悟らないように、
繰り返し見よ、しかし分からないように』と。(イザヤ書6:8-9関根訳)
イザヤの言われた内容をよく考えてください。初めから収穫の見込みがない事業をしなさいと命じられるようなものです。
イザヤは尋ねました。「主よ、いつまでですか」。主の答えは「町々は荒れ果てて住む者なく、家に人なく、良き地が荒野として残るときまで。」でした。(6:11 関根訳)
皆さんはこれをどう思われますか。「これをやれ」といわれても「効果はありません。結果はでません。」ということが分かっているのに「やれ」といわれるのです。無理難題の要求ではないでしょうか。最後は国が亡びるというのです。「それを語れ」と言われます。これはエルサレムの滅亡となって実現しました(586B.C.)あとで故国に帰ることができました(キュロス王の捕囚釈放布告538B.C.)
イザヤはどうしたでしょうか。とんでもないと断りましたか?彼は引き受けました。効果のないことを承知で預言者として立ちました。キリスト教とご利益宗教の違いはここにあるように思います。ご利益的キリスト教?もあるのでしょうか。
教勢拡大、信者の獲得、小さな教会、大きな教会?・・・・。そういうことはないでしょうか。伝道は商売ですか?キリスト教の伝道といっても決してきれいごとではありません。神学校の学生諸君にこの覚悟があるのでしょうか。
神から召され牧師となるということは真剣なことです。簡単なことではありません。
イザヤの信仰は7章に出ています。こんなことがありました。同胞の北の王国と北方のスリヤとが同盟し攻めてくるというのです。時の王はアハズでした。
アハズ王は戦いに備え、籠城の準備と水道の修理をしていました。4節から7節をご覧なさい。「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。…主なる神はこう言われる、この事は決して行われない、また起ることはない」(6:4-7)。またこうあります。「もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない」(7:9)。つまり籠城の前に「まず神を信ぜよ、信じなければどんなに備えても立つことはできない」。この言葉はイザヤの預言の本質です。次の言葉も大切です。「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(30:15)
何はさて措き「信ぜよ。それから凡ての準備をしろ。信じないでどんなに軍備、外交上の方策をしても立たない、徒労に終わる。皆さんが行き詰まり、立ち往生の時、この聖句に頼ってください。