【聖書箇所朗読】
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2019年12月8日説教要旨
聖書箇所 コリントの信徒への手紙一 1章18節~25節
キリストは神の知恵
瀬戸 毅義
今年の12月の第2主日は12月8日です。12月8日と聞き何を思いますか。12月8日は太平洋戦争開戦の日です。1941(昭和16))の今日、日本海軍はアメリカの太平洋艦隊の根拠地、ハワイの真珠湾を急襲し、アメリカ・イギリスに宣戦布告をし、太平洋戦争/大東亜戦争がはじまりました。
初期の段階ではビルマ、タイ、マレー、仏印、インドネシヤ、フィリピンなどを押さえ、優勢によく戦いましたが、ミッドウェー島沖の海戦(1946/昭和17)で日本海軍の敗北後は退却と玉砕続きでした。やがて本土空襲の開始、工業生産力の壊滅状態、飢餓と物資不足のため1945年8月15日のポツダム宣言受諾、無条件降伏となって敗戦になりました。
1941年12月8日、真珠湾攻撃において第1次攻撃隊を指揮し、「ト・ト・ト」(全軍突撃せよ)及び「トラトラトラ」(奇襲ニ成功セリ)を打電したのは淵田美津雄(1902/明治35—1976/昭和51)海軍大佐でした。彼は後にキリスト教の洗礼を受けクリスチャンになりました。彼はどのようにクリスチャンになったのでしょうか。
1946(昭和20)年1月天皇は人間宣言を発して「現人神」(あらひとがみ)ではなくなりました。淵田にとって最高のフバイブルであった「軍人勅諭」「戦陣訓」も無価値となりました。それによって支えられた軍隊という組織も、根こそぎ否定されてしまいました。茫然自失の状態でした。多くの戦友や部下も死に、自分だけ生き残ったことへの慚愧の念もありました。戦後の荒波のなかで、何を精神的な支えとして生きていけばよいのでしょうか。
こういう心の悩みを掘り下げる中で、目にしたのが、聖書の言葉「かくてイエス言ひたもう『父よ、彼らを赦し給え、その爲す所を知らざればなり』」(ルカ23:34 文語)でした。
彼は1951(昭和26)年3月日本キリスト教団堺教会 斎藤敏夫牧師から洗礼をうけました。聖書に「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、・・・・十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ2:14-16)とあります。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」(コリント第1 1:18)とあります。
本当に不思議です。キリストを信じてお従いするとき、「愚かと思われた十字架の言葉は神の力」であるとわかります。敵であった者との間の隔ての壁が無くなってしまったのでした。
淵田はバプテスマを受けてから(洗礼後)、招かれて、何回か(合計8回)アメリカにわたり、キリストをあかししました。
ある集会で次のようなことがありました。
ある日匿名の手紙を受け取りました。発信人の住所も名前もない。開いて見ると、次のようにしたためてありました。
「先日、12月7日の日曜日は11周年のパール・ハーバー・デーであった。私はビリー・グラハムのテレビジョンでお前の顔を見ました。唾をひっかけてやった。ここはお前なんかの来る国ではない。クリスチャンになったというが、なぜ真珠湾を爆撃する前になっておかなかったのか。あの日、子を失った母より」と書いてありました。
私は祈りました。・・・・あなたは、わたしたちの平和であって、十字架によって、敵意という恨みや憎しみを取り除いて下さいました。しもべをあわれみ給うとともに、真珠湾の遺族たちの上に、あなたのめぐみを垂れさせ給え。かくて彼らをあなたの救いにあずからせ、二つのものを一つとなしたまえ、アーメン。
祈りは聴かれる。この私の祈りは、はやこの晩に聴かれたのであった。事の次第は次の通りである。・・・私が話を終って、講壇の席につくと、一人の中年婦人が、十二歳ぐらいの男の子の手をひいて、講壇の前に進んで来た。そして私に挨拶して、「キャプテン、この児、私の息子ですけれど、この子の頭に手をおいて祈ってやってくれませんか」と言う。そして司会者の方を向いて、なぜキャプテンに、息子のために祈っていただきたいか、そのわけを会衆の皆さんに話していいかと伺った。司会者は、よろしいとうなずいたので、婦人は話し出した。「このキャプテンが、十一年前に、真珠湾を爆撃なさいましたとき、私はその日は出産で、前日からホノルルの病院に入院しておりました。私の夫は海軍大尉で、アリゾナ(註:戦艦の名前)の砲台長でありました。・・・アリゾナと聞いて、これはいかんと私は首をすくめた。夫人は話をつづける。「前日は土曜目でしたから、夫は上陸して、病院に私をみまってくれました。しかし夜になって、明朝また来ると言って、艦に帰りました。翌七日の日曜日、午前八時過ぎに、私の病室は、窓ガラスを振わして、大きな震動を感じました。
その震動は、アリゾナの轟爆(ごうばく)であったと聞かされました。
そのとき、この子は生れたのでした。あの爆撃の時に私の夫は永遠に消えて失ったのでありました」私はジーンと来た。子供の生れたとき、その父親は消えたのであった。
「この憶い出は私にはつらいことでした。私は、アリゾナを爆撃した日本空軍を憎んで来ました。キャプテン・フチダのあかしを聞き、神様のみわざの奇しさにふるえがとまりません。しかし私も私の夫もクリスチャンでした。この子は父を知りません。その後、物心つくようになってから父の死を知ってそのことの故にかたくなになってどのように導いてもイエス・キリストを信じようとはしません。キャプテン、この子の救われんために、頭を手において祈ってやって下さいませ」
会衆一同は、粛として声を呑んだ。私は会衆一同を顧みて、この子のために一緒に祈ってくれるように促がし、子供の頭に手をおいて熱い祈りをささげた。
「父上、彼らを赦し給へ、その為す処を知らずざればなり」(ルカ23:34)
・・この話には、続きがあります。この子は後にウェストーポイント陸軍士官学校に入学しクリスチャンとなって、聖歌隊の指揮をするようになっていたのです。・・
それから10年ほど過ぎて、私の三度目の渡米のとき、私はニューヨーク州のあちこちの田舎の町で集会を重ねていた。或る目曜日の晩の集会であったが、ウェストーポイントの陸軍士官学校の生徒たちか二十人ぐらい現われた。・・・リーダーと見える一人か、私に近寄って声をかけた。
「キャプテン、私を憶えていらっしやいますか?」 私は、びっくりして、つくづくと眺めるか、さらに見憶えはない。「誰でしょうね、憶えていない」と私か言うと、「そうでしょう、十年も前のことですから。私はブレマートン軍港で祈って戴いたあのときの少年ですよ」おお、そうかと、私は二度びっくりした。大きくなったもんだなと、彼をつくづくと見直したのであった。
(出典:『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』編/解説 中田整一 講談社、2007年 359-363頁)
淵田は敵であった米国へ、キリスト者として赴いたときの感激を以下のように記しました。
戦後八年目(註・1952/昭和27)にわたしはアメリカへ渡りました。かっては爆弾を携え憎悪とともにきたアメリカへ、十一年後に来てみれば、兄弟とよばれて温い歓迎を受けたのです。なんとすばらしい変化ではありませんか。しかしこれは十一年の歳月がそうさせたのでしょうか?いいえ、違います。わたしは爆弾に代わるに聖書を携えているからです。憎悪に代わるにキリストの愛を抱いているからです。つまり理由はたった1つ、わたしがイェス・キリストを救い主として受けいれたから、アメリカのクリスチャンとともに、主にある兄弟として一つに結ばれるに至ったのです。
(淵田美津雄著『真珠湾からゴルゴダへ』大阪クリスチャンセンター、2015/平成27、14頁。)