【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2020年3月8日説教要旨
聖書箇所 マラキ書 3章14~18節
信仰に益はあるのか
瀬戸 毅義
マラキ書(明治訳・馬拉基書)は旧約聖書の最後の書物であり、ホセア書から始まる12小預言書の最後の書物でもある。「マラキ」を固有名詞とするには疑問があり、多くの学者は本来無名の書であったが、本書3章1節の「わが使者」(ヘブル語マラキ)を取って書名としたものとする。成立年代は紀元前430年頃 とする聖書(NIV Essentials Study Bible,Zondervan,2013など)もあれば(紀元前5世紀後半(460-450B.C.)とするものもある。本書は問答文学の嚆矢濫觴である。第一に預言者が一つの命題をだし、これに対し民が質問する。再度預言者はこの質問に対する解説を与える。これは後に発達したラビ的教育法の最初の記録であるという。内容は六つに分けられる。
- ヤーウエのヤコブに対する愛はヤーウエのエサウに対するそれよりも大である。その歴史的事実としての証拠(1:1-5)。
- イスラエルの忘恩。祭司や民によって、ヤーウエが蔑ろにされている(1:6-2:9)。
- 異邦の女性を娶り、異教の礼拝を受け入れるのは、神に対するユダの男性の罪である(2:10-12、13-16)。
- 民はヤーウエの正義を否認している。神の審判は不可避(2:17-3:5)。
- 「什一」と神へのささげ物を軽視。それは神のものを盗むに等しい(3:6-12)。
- 神の正しい審判の日が近づいている。それは善悪正邪が明らかになる日である(3:13-4:3)。
以上がマラキの時代の宗教的社会的状況である。要するに信仰が弛緩していたのである。捕囚以後の時代には神殿とそれに関連した儀式は当時の宗教生活、社会生活の中心であった。課せられた宗教的義務を厳格に守ること、異教の影響を極力避けること。これらのことは、神の民としてのイスラエルの自己保存のために極めて重要であった。決してそれを形式的に守れというのではない。そこにある精神、それを行うものの神に対する態度を重視しているのであろう。
我々はマラキ書の時代とは異なる時代に生き、異なる国土に住んでいる。故に全く同一のことを要求されているのではない。しかし本書が指摘することは現代の我々にもあてはまる。姦淫、占い、偽りの誓い、弱者を搾取することなどである(3:5)。
『神に仕える事はつまらない。・・・・かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか』。これも現代人の正直な声ではないか。
周囲はどうであれ、教会に来ているクリスチャンには、この時代果たすべき義務があり守るべき信仰がある。教会も同じではないか。「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである」と記されている(マタイ 5:13)。
「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(行伝16;31)と聖書にある。愚直に聖書が宣べる信仰を伝える者でありたい。「キリスト以外に救いの道はない」世は変わり時は移ろうとも、聖書は変わりません。私はこれ一本で行きたいと思います。「バカの一つ覚え」はあまりいいコトバではありませんが。