【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2020年3月29日説教要旨
聖書箇所 ルカによる福音書 17章5~10節
取るに足りない僕(しもべ)
瀬戸 毅義
取るに足りない僕(しもべ)は(新共同訳)の表現である。永井直治の新契約聖書では「無役の奴僕」。口語訳は「ふつつかな僕」となっている。この形容詞は英語でuseless, good for nothing, unworthyなどと訳される。僕(しもべ)は農作業、家事労働に従事させられた奴隷である。命じられた作業を終えた僕は 夕食の準備をし、さらに給仕もするようにと命じられる。奴隷としては当然の務めであった。このたとえ話はイエスの時代の社会状態を背景として理解しなければならない。当時の僕(奴隷)は、主人の要求がいかに酷であろうともそれを果たすことを求められた。神の命により働く僕は、全力を尽くして働いても不完全であるかのように思うべきである。ここではそれを教えているのであろう。つまり神の前での徹底した謙遜である。塚本訳では「そのようにあなた達も、(神に)命じられたことを皆なしとげた時、『われわれ は役に立たない僕だ、せねばならぬことをしたまでだ。(褒美をいただく資格はない)』と言え。」となっている。
5節、6節で弟子たちが主に「わたしたちの信仰を増してください」と求めたとある。この箇所は今朝の無役の僕の話と一見つながりがないように思える。しかしそうではないだろう。弟子たちは主に信仰を増してくださいと願っている。イエスはそれに直接答えられないで、信仰の有無を問われる。ポイントはここにある。君たちは少しの信仰でもあるのか。あるか無きかの信仰でも驚くべき力を秘めている。からし種はあらゆる種の中で一番小さいものである(マタイ13:32)。ユダヤ人は桑の木は600年の樹齢があると信じていた。日本のケヤキや楠の木にも例えることができるだろう。なおマタイ、マルコの平行箇所では桑の木は山となっている。
「君たちは、いま持っている信仰だけでは足りないからもう少し増してほしい」と言うが、「実は君たちには信仰がないのだ」という厳しいお答えである。しかし本当はイエスは弟子たちを激励されたのではないか。信仰は大小ではない。信仰は小さくても力あるものだ。君たちの信仰を通して神が大きく働いてくださる。私たちも各自その信仰をいただいている。日々の務めを怠りなく忠実に果たさねばならないと思う。
私たちのこの世での働き場所は各自それぞれ違っている。辛いこともあろうし、時には逃げだしたく思うときもあるかもしれぬ。私たちの責任は重要であり、神のご期待も大きいのである。青山師範(現学芸大)で英語を教えたクリスチャン教師の石原兵永(1895/明28~1984/昭59)は、自分の仕事(職業)のことを書いている。1915/大正4年の4月、石原は青山師範を卒業し、本郷の富士前小学校に勤務することになった。彼は内村鑑三の事務手伝いをしていた。
人生の大部分はドラッジャリー(drudgery骨折仕事)
内村鑑三先生は私の将来のことを心配して、「君は卒業後はどうする積りか」ときかれた。さしあたって学校につとめるほか何も確定しでおりません、と答えた。すると先生は、 力をこめてつぎのように言われた。
「君が何でもよいから、自分のためでなく、神のために、それが一番よいと決定したら、一つそれをやって見たまえ。一心にやって見たまえ。もしそれが誤りでどったならば、君は失敗する。それでよい。誤解と失敗とは決して恐れるに足りない。やろうと思ったら勇ましくやって見よ。必ず運命が開かれる。失敗したら、失敗してもよい。それを恐れて万事に気を配るから、何もできないのである。君、この事を一つ実行して見たまえ」と。
これからどうして勉強しようかと思っていた私は、この言葉から強い感銘を受けた。「神のために最善を」と。何という力強い言葉であろう。私の心は熱するのであった。・・・・
しかし深い人生体験から生まれた先生の言葉は、まだ成年にも達しない無経験の私には、その意味がわかるはずがなかった。神のための最善とは、平凡な日常生活の雑事をはなれた、何か崇高な神秘的なものと私には感じられたのである。たぶんそんな気持から私は言った。
「学校につとめても、つまらぬ仕事や雑用に自分の時間と全精力を用いるのは、もったいないような気がするのですが。」と。これを聞かれた先生は、たちまち目をむき、声をはげまして、面とむかって私に言われた。
「それは君は誤っている。人生の大部分はドラッジャリー(drudgery 骨折仕事)である。重荷を負って牛車を強く引かねばならぬ。それが人生であるのだ。イエスもそれをなされた。もし君にその仕事か堪えられないのならば、君はどこへ行っても役に立たぬ。それをいやがってはだめだ。君がやらなげれば、誰かがやらねばならないではないか。同じいやな仕事を、君がやる時には、正しく勇ましくそれをやってのけなければならぬ。その仕事を君がやらないのならば、君はその仕事について論ずる資格がないのだ。かく牛車を引いて得た自由でなげれば貴くないのだ。今の時からそんな事を言うのは少し生意気だ。よっぽど、そこには貴族根性、怠け根性がはいっているよ。」
と、火が出るほどビシビシやられた。内容もない言葉だけの自由や真理などを叫んでいい気になっている虚栄心に対する、実に強烈な鉄槌であった。高慢の鼻は無残にも打ちひしがれ、全く顔色がなかった。しかし、何という真理の言であろう。Life is real, life is earnest. (人生は真実であり、人生は真剣である)と、日ごろ暗唱したロングフェローの詩は、私の耳に快い「人生の歌」であった。しかし「人生の大部分はドラッジャリー(労役)である」という、内村先生の言葉は、真に人生を生かす力であった。
この時からすでに半世紀余りにもなるが、この教えの貴さが、そして真剣に叱って下さった先生の深い愛のありがたさが、年とともに身にしみる思いがする。
出典:石原兵永著作集 4『身近に接した内村鑑三(上)』山本書店、1972年、187頁以下。
付記 3年間の約束であった協力牧師の働きは今日で終わりました。ふつつかな者を用いてくださった神様に心から感謝します。祈りに覚えていただいた教会員の皆様にお礼を申し上げます。(筑紫野南キリスト教会 協力牧師 瀬戸毅義)