【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2020年6月7日説教要旨
聖書箇所 ヨハネによる福音書4章4節~14節
イエスとある女性の邂逅
瀬戸 毅義
イエス時代サマリヤの地はいわば敵地であった。ユダヤ人はそこを通るのを避けた。ユダヤからサマリヤヘは3日の距離であったが、2倍の6日を使ってでも彼等は回り道をした。ユダヤ人にはサマリヤの地はタブーであった。
この女性は身持ちが悪いというラペルを貼られていた。彼女は5人の男性と関係した女性だ。それは人々のうわさであった。彼女は同じサマリヤ人の中でも孤立していた。仲間外れであった。それが昼の12時―パレスチナで労働には一番適さない時間である一に彼女が一人で水を汲みに来た理由である。
以上がこの女性の置かれた状況である。賢明なラピや律法学者、パリサイ人ならば、そのような女性と口を聞くどころか、急いでそこを離れたことであろう。イエスとこの女性との邂逅がヨハネ福音書に記録されている。その後彼女は町の人たちに自分を隠そうとはしなかった。彼女はキリストの証人となった。彼女は生まれ変わったのである。
今朝の聖書はその場面である。福音との出会いは、その人を目覚ましく変える。この女性は何歳であったのだろうか。そのころは早婚であったという。二十歳前に結婚したとしても40、50歳ほどだったのだろうか。キリストは30歳を超えた頃であったろう。普段なら口も聞いてくれないユダヤの男性が「水を飲ませてほしい」というその素直な要望にこの女性はどんなにか驚いたことだろう。
イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」(16節)とある。これはラビが大切な話(ここでは真の礼拝のこと)をするときは、夫の同席を求めるのが普通であったことによる。
サマリヤの女性は真の神の礼拝について初めて教えられた。それは場所、国籍、男女、自分の過去などに制限されない純粋に霊的なものであった。このような話は彼女には初めてのことであり、心が洗われるような清い思いになったことだろう。
矢島梶子(やじまかじこ/1883-1925)の福音との出会いもそうであった。
彼女は、日本基督教婦人矯風会会長を務め、女子教育にも功績があった。93歳で亡くなったときの葬儀の会葬者は3000人だった。私たちはその大きな功績を知り驚くのであるが、彼女の歩んだ道のりを知ればなお一層彼女に尊敬の念を覚えるのである。
彼女は47歳でワトソン先生から洗礼を受けた。三浦綾子は以下のように書いている。
「なるほど、キリスト教の純粋な信徒としての立場から言えば、受洗の前にこの罪を、牧師と信徒に告白すべきであったかもしれません。けれども、私はキリスト教の信仰を、そのようにはとらえてはおりません。私に洗礼を授けてくださったタムソン先生は、こう言われました。
『キリストは、あなたの罪をことごとくその背に負って十字架につかれたのです。よろしいですか、あなたの罪をことごとくです。今までの罪は、針で突いたほども、あなたにはなくなったのです。あなたはただそのことを心から感謝し、己が救い主はイエスであると心から信ずれば救われるのです。救われるためには、いささかの行為も必要としません。あなたはあなたの救い主がどなたであるかを告白するだけでよいのです。決して人間は、自分自身の行為によって嘉(よ)みせられ信徒となるのではありません。むろん信じた者が、救われた喜びのゆえに、貧しい人を助けたり、病める人を見舞ったりすることは自由ですが』タムソン先生は、これが福音だと言われました。」
三浦綾子著『われ弱ければ―矢島梶子伝―』、小学館。
矢島梶子が歩んだ道のりは平坦ではない。1858/安政5年に26歳で結婚したのであるが、相手の武士林七郎には2度の離婚歴があり3人の子がいた。酒癖が悪くDVであった。勧めてくれた兄や家族のことを思い耐えたが10年で離婚。35歳であった。兄の矢島直方を頼り上京したのは1872年/明治5年、39歳。自立するために教員伝習所に入学、教員になることを目指し40歳でその願いを適えた。
矢島梶子は兄の書生であった鈴木要介と恋に落ち一女を儲けた。しかし彼は既婚者だった。
徳富蘇峰・蘆花は叔母にあたる矢島梶子を厳しく批判した。叔母はそのような罪を告白した上で、受洗すべきだったと。
上記の三浦綾子の文章を徳富兄弟の批判を覚えつつ読んでほしいのである。
矢島梶子は女子学院の初代院長となった(1890/明治23年)。彼女は細かい校則を嫌った。彼女が生徒に示した校則はただ「あなた方は聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」というものであった。