【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2020年6月21日説教要旨
聖書箇所 マタイによる福音書16章15~20節、28章18~20節
我らの教会
山田 光道
私達に託されている教会とは、どのようなもので、どのようなところなのでしょうか。週ごとにそれぞれの生活の場所より、導きを受けて、人々は礼拝をささげるために集まってきます。この営みは粛々と2000年近く受け継がれ、守られてきました。私達がこの世の生を終えてからも、この営みは続けられていくことでしょう。
しかし今この教会の集会はとても厳しい状況にあります。もともと教会というのは、建物を意味しませんでした。キリストを礼拝するために集まった人々の群れを教会と呼んだのです。したがって、それが困難という状況は、教会の根本に関わることです。しかし魂の平安と人の命の尊さを掲げている教会は、現実の世界の出来事に無関心ではおられません。今ほど一人一人が考えて行動することの大事さが問われているときはありません。主にある関わりを対話で行うという基盤に基づいて共に集まって一緒に礼拝を行うということとと今世界で求められている生き延びるためにお互いの距離を保つということ接触を避けるということの間には精神的にも物理的にも大きな隔たりがあります。
この差を埋めるものは何でしょうか。それは一人一人が聖書に向かい合い、そこから時代性や地域性を克服して、生きる命をいただくことであります。そしてそれを成し遂げていくためには人間を越えた方との対話を可能とする祈りが求められています。距離的に離れていてもたとえお互いの姿を確認することができなくても祈り合うことによって私達はつながりを持つことが可能です。もともと人間はそのように造られていたのですが、便利な世界になって、いつの間にか見えるもの手で触れることのできるものが、確実であるという思い込みにとらわれています。
もう一度、コリントの教会に書き送ったパウロの手紙の「見えないけれども確かにある。そして見えないものこそが真実であり、一時的なものではなく、永遠に続くものである」ということに心をかたむけたいものです。なぜなら、私達は何が起こるかわからない、変化する価値観の影響下に生きていかなければならない人間としての運命を与えられているからです。しかしそうゆう人間だからこそ、変わらないもの、変わらない方によって生きていくことが必要なのではないでしょうか。そのような教会であることを主にあって求めていきたいものです。