【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2021年1月3日説教要旨
聖書箇所 ピリピ人への手紙3章12~14節
後ろのものを忘れて進む
瀬戸 毅義
今朝の聖書テキストを別の訳で見ましょう(12節)。
わたしがすでにこれを得たとかすでに全うされたわけではなく、キリストによってわたしが捕えられたがゆえにますます捕えようと努めるのです(前田護郎訳)
ピリピ人への手紙は、西暦61年ごろに書かれました。筆者のパウロはローマで入獄中でした(西暦59年~62年頃。パウロの殉教は西暦67年~68年頃です)。この手紙が獄中の手紙ともいわれるのはそのためです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(4:4)とあるように喜びの手紙ともいわれることがあります。皆さんもピリピ4:6の聖句を暗誦してください(先輩の大牧師から教わったこと)。
さてパウロは後ろのものを忘れてといいます。過去のことは基督にお任せして前に進むのが基督信仰です。パウロにはユダヤ人としての誇りと自負がありました。ユダヤ人は5歳より聖書を学んだといいます。ヨセフスは「我々は幼児期より律法を諳んじ、これを我々の魂に彫り込んだ」と豪語しています。そのような自己の背後のものを一切捨てて基督者となることには大きな決断が求められます。明治の頃基督者となることはたやすいことではありませんでした。新島襄、内村鑑三、矢内原忠雄なども同様の経験をしています。現在の日本人はどうでしょうか。クリスチャンになる時に明治の頃のような日本人としての内心の葛藤はあまりないようにも思います。基督者となることは日本人であることを忘れ無国籍人となるのではありません。日本人には日本人として他国の人にはない良きもの、性質、誇りとするものがあるはずです。基督者(クリスチャン)となることはその良きものを失うのではありません。反ってそれを大切に保持するのです。最近ネットでこういう記事をみました。ある外国人が日本の駅と道路で財布を落とす実験をしたのです。財布の中にはカードや現金、ビザなど重要なものが入っていました。50回落としたら、すべてすぐにその財布は持ち主に届けられたのです。その外国人がいうには日本人は世界で一番正直な国民だというのです。ネットで撮影された場面が一回、2回・・・50回とカウントされ撮影されていましたのでウソの話ではないと思います。日本の国土が何千年、何万年、何十万年もかかってできたように、日本人も即席に形成されたのではありません。そこには神の計画と願いがあるはずです。善悪の判断、義理や思いやりなどなど様々のものが昔の時代から宗教や儒教、道徳などを通して育まれてきたのです。そういう良きものがあればわたしたちはそれを大切にしなければなりません。
パウロはイエス・キリストに捉えられましたからユダヤ人としての人間的な肉の思い、誇りは捨てましたが、彼はユダ人であることを止めたのではありません。ユダヤ人としての深い信仰の姿勢、神と人への愛、そういう大切なものは死ぬまで忘れませんでした。クリスチャンになってからも決して忘れませんでした。
神の救いの約束の誠実さを確信しつつ(Ⅰテサ5:24)、自分の弱さに懼れ慄きながらも前にすすみました。ここに真の基督者の態度があります。各自の人生を考えると後悔も失敗も多々あることでしょう。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」(13節 新共同訳)とあります。パウロはここでオリムピヤの競技の例をもって説明します。競争者がその走り終わった過去のことを忘れて、なお前方に向って身体を伸ばして突進することです。パウロは過去の自分に属する肉の誇り、自分の過ち、罪、キリスト者の迫害等をすべて顧みないで前方に向かって進もうとしています。過去に恋々とすること、エジプトの肉の鍋を慕うこと(出エジプト16:1-3)、自己の過去の罪を思いつつ意気消沈することは、キリスト者の取るべき態度ではありません。
失敗にはよく考えると二つあると思うのです。自分が正しいと思って正々堂々と物事をして失敗しても、それは何も恥じることはありません。
自分の罪の思いから何かをして、失敗の結果におわればそれは自分が招いたことでさり、恥ずかしいことです。その時にも、神さまは、そのことを通して、私たちに悔い改めの心を再び与えてくださいます。聖霊を以って正しい道へと私たちを導いてくださいます。ですからクリスチャンは絶望してはなりません。
信仰、希望、愛といいますが。いつでも私たちには希望があるのです。
この2021年私たちは全能の神様を信じて、雄々しく前を見て進もうではありませんか。最後ヨシュア記の言葉を読ませていただき終わります。
「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」(ヨシュア記1:9)。