【説教音声ファイル】
2021年4月11日説教要旨
失望しないで祈り続けよ
竹田 浩
序
私達の信仰生活において、重要なことが幾つかあります。その第一は何と言っても十字架と言う事でしょう。また、第二番目に、み言葉と言う事が考えられます。また第三番目に、問題の多いこの人生を生きていくときに勝利する為に祈りと言う事が考えられます。今日はその祈りについて考えてみたいとおもいます。即ち、いかにして力強い祈りを捧げ、人生に勝利するかと言う事です。祈りと言う武器を持たなければ、次々と起こりくる問題に押しつぶされて、生きる事が重荷になります。しかし、聖書の教えている祈りの精神をよく理解し、その武器を用いて人生の問題一つ一つを解決して勝利していきたいものです。
今日はルカ18章1節からの、「やもめと裁判官」の譬え話からその秘訣を学んでみたいと思います。
1.失望しないで。
イエス様は失望しないで絶えず祈るべき事を教えて下さいました。祈りの生活において非常に重要な事は失望しないという事です。失望すると神様に祈り求める力を失ってしまいます。しかし、現実生活の中で失望しないという事はとても難しい事です。私達の目の前に次ぐ次に起こってくる事柄は私達を失望させるような事柄の連続です。しかし、そのような中で失望しないで、即ち希望をもって神様に祈り続ける事は決して簡単な事ではありません。表面は平然としていても、の中では静かに失望してあきらめてしまっている事が多くあります。どうしたら失望に打ち勝つことが出来るのでしょうか。旧約聖書に出て来るヤコブは兄から逃れて20年叔父ラバンの家で生活をしましたが、神様に導かれて故郷に帰る事になりました。途中まで来たところで兄エソウが400人の手下を連れて迎えに来ているという報告が入りました。ヤコブはその時非常に恐れましたが、彼は神様の約束の言葉につかまりました。この様にヤコブは告白しました。「あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える。」この言葉は故郷に帰る事を決断した時に、神から与えられた約束の言葉でした。それでも恐れの収まらないヤコブは20年前の神様の約束の言葉を思い起こしました。「わたしは必ずあなたを祝福する。そしてあなたの子孫を海辺の砂の様に多くする。」と言う約束の言葉を思い起こしました。彼は現実に押しつぶされそうになった時、神様のみ言葉を思い起こし、その、み言葉に寄り縋ったのです。そして、失望しないで信仰に立って祈る事に全力を傾けました。私達もこの現実の戦いの中でいつも神様の約束のみ言葉にしっかりと固着し、祈り続けていかなければなりません。私達にははっきりと「リバイバルと世界宣教」という神様から与えられた約束の言葉が与えられています。その神様の約束の言葉を宣言しながら失望に打ち勝って祈り続けて行かなければなりません。
2.祈り続けよ
イエス様は今日のみ言葉において祈り続ける様に教えてくださいました。少し求めて与えられないと失望して祈りを止めるようではとても神様からの約束を頂く事は出来ません。イエス様はここで「やもめと裁判官」の譬えをもって、その事を教えて下さいました。神を恐れず人を人とも思わない裁判官がいました。それに対して貧しいひとりの寡婦が自分の有利になる裁判をして欲しいと願う訳ですが、裁判官はしばらくの間は全く取り合おうとしませんでした。しかし。彼女が何回も何回もやって来て頼むので裁判官は考えました。彼女の為になる裁判をしてやらないと、ひっきりなしにやって来て、うるさくてたまらないから彼女の為になる有利な裁判をしてやろうと思ったと、言っています。このひとでなしの裁判官でさえ、あまり彼女が何回もやって来て頼むので彼女の為になる裁判をしてやったと言うのです。ですからイエス様は以下の様に仰いました。「まして神は昼も夜も叫び求めている選民の為に正しい裁きを行わないで、放っておかれる事があるだろうか。神は速やかにさばいて下さる」。どんなに難しいと思える時にも祈り続けるならば。神様は私達の祈りを聞いて下さいます。
同じルカ11章には一人の人が真夜中に隣人の所にいって、「パンの3つ貸して下さい」と、求めましたがその友人は与えて呉れませんでした。しかし、しきりに願うので起き上がって、ひつようなものは与えてくれたというのです。先ほど、お話ししましたヤコブは徹夜して兄から救って下さるように、決死的に祈りました。その時、み使いがもう去らせてくれと頼みましたが、私の願いを聞いて下さるまであなたをさらしませんと徹夜で祈ったと言うのです。
3.神の人となるまでに
私達は祈りの戦いをする時に、言うまでもなく求めているものを与えられるまで、祈りつづけなければなりませんが、しかし、祈りはそれでおわるのではなく、その祈りを通して神に出会い、人格的変貌を遂げる所にあります。自己中心的であったヤコブはこの祈り戦いを通して、名前がイスラエルと変えられました。イスラエルとは神勝利したもうと言う意味です。人間の自我が勝利する人生ではなく、神のみ心が勝利する人生、これこそが私達の信仰生活の究極目標です。パウロはガラテヤ書の中で、「御霊によって歩きなさい」と命令を与えていますが、これは言葉を変えていえば、聖霊に満たされて祈りの生活に勝利せよと言う勧めです。その事によって罪と肉に汚染された私達が主の品性を備えたかみの人に変えられて、何時までも霊的に低い所で生活をするのではなく、粘り強い祈りを通して祈りの生活に勝利し、全く新しい霊的な次元に突入したいのです。
有名な神学者フォーサイスは執拗な祈りこそが、聖書に記されている祈りの精神の根本であると教えています。イエス様はゲッセマネの園で血を流すようにして、父なる神様の前に十字架をとる為に祈り戦って下さいました。私達もイエス様の弟子としてその祈りの姿に倣う者になりたいものです。