【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2022年6月12日説教要旨
ヨハネによる福音書1章1節~5節
見えるもの、見えないもの、そして本当に見えるもの
山田 光道
2ヶ月にわたる入院と手術を通して、私はもう一度祈りとはみ言葉とは何かを深く考えさせられました。もはや機械器具によってしか生きられないような身体になって、私の意識の中にあったものは、神様どうぞおまもりをということと、皆さまが祈ってくださっているということだけでした。
やっと手術を終え、身体に回復の兆しが見えた時、心に浮かんできたことは、コリント4:18のみ言葉とヨハネ1:1~5のみ言葉でした。最先端の機器を用いて幾度か繰り返される施術を経験して、見えているようでも見えないこと、では本当に見えることとはどのようなことなのかを考えさせられました。
コリントの人々に限らず、現代の私たちもまた見えるものこそ、手に触れるものこそ確実だと思い込んで生活しているのです。しかし神と人との関係の世界では、「霊肉共に健全な状態」が求められています。私たちの世界では忘れられがちですが、霊の世界がなければ、意識しなければ、限りのある人生を持つ人間としては正しい私らしい生き方は不可能なのです。霊の目で見て、受け止める時に、私たちを根本のところで生かしめている神の存在をはじめとする見えない世界が厳然として存在し、それこそが永遠に続くものであることが、はっきりと認識されるのです。
今朝のヨハネによる福音書序文とも言える冒頭の言葉は、正に霊の目で見て受け止めるべきものです。1節で人間の歴史(時と世)に先行して在るロゴスの神との関係を述べ、時間に先行して、つまり神の永遠性と唯一性において始まっているとします。3節から4節でこの世との関係を述べ、このほかならぬこのロゴスこそ創造の仲介者であることが主題となる。そして5節では私たちの世界と歴史について光とやみということばを用い、二元論的に語られています。霊と肉の対比、闘いが5節「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」と述べられています。しかしこれは単なる対比や闘いということではなしに、あくまで光の先立ちが強調されているのです。