【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2023年3月26日説教要旨
イザヤ書53章1節~12節
救い主とはどのようなお方か
山田 光道
イエス・キリスト誕生のはるか約750年前に預言者―神のお言葉を預かって人々に告げ知らせた人々ですが―イザヤ(この意味はヤーウエこそ救い主)によって述べられたことがそのまま歴史の時間と営みを越えて、人間としてこの世に誕生した方の存在の意味を告げ知らせているかのようです。
この聖書の箇所は「苦難の僕」の詩と呼ばれています。キリストの側、言い換えると新約聖書の側からみるとキリストはこのみ言葉に自らの歩むべき道を示された。それが救い主の唯一の使命でした。次元は異なりますが、私達人間ですら、たった一つのみ言葉や人との出会いに支えられて人生の道を歩むことが許され、求められている使命を授かることがあるのですから、ましていわんやというところです。
このイザヤ書は旧約聖書の中では最大の預言書と言われていますが、第一イザヤ、第二イザヤ、そして第三イザヤからこの書は成り立っています。この書の背景には紀元722年から721年の北イスラエル王国のアッシリヤ帝国による滅亡そして捕囚―勝利者の国に奴隷として連行されそこでの過酷な生活を強制される―という現実、また597年のバビロニアによる南ユダ王国の滅亡と捕囚という国全体に関わる苦難、そしてまた539年のペルシャ王キュロスによる捕囚からの解放という歴史的な事実を背景として書かれています。
苦しみの中での叫びの受容と慰めの言葉が預言者によって人々への導きとして述べられています。そしてこの第二イザヤの52章13節からはじまる主の僕、苦難の僕の詩は、私達の救い主は「どのような方なのか」を象徴的に指し示し、告げ知らせるものとされてきました。キリスト・救い主はどのような姿をとり私達のところにくるのか、そして私達罪人はその人にどのような態度をとったのか。人々はこの人の姿を理解したのか、なぜこの人はそのような姿をとって人々の中にあらわれねばならなかったのか、預言者は具体的に人々に宣言し、語りかけます。
キリスト教は伝統的にこのイザヤ書53章をイエス・キリストご自身とその生涯を表すものとしてきました。したがいまして、キリストのこの世での3年足らず公生涯の歩みを思い起こしながら朗読された文をご一緒に振り返ってみたいと思います。