2023年5月21日
大坪 ゆき
主よ、感謝します。
4月から心理の資格を取得するため、通信の大学院に通っています。
先日、スクーリングでロールシャッハテストを受けてきました。ロールシャッハテストとは10枚のインクの染みを見たてて何に見えるかでその人の無意識を含めた精神状態をみる検査です。
学生同士で検査をするのですが、インクの染みをみてどうみえるかは相手と私で全然違いました。相手が1つのカードを見て、「偉そうなふんぞり返った権威ある男性」に見たてるのに対し、私には「黒いマントを翻したモンテクリスト伯」に見えたり。10枚全部違う見え方でした。しかも、その人の見え方を教えてもらうと、次からそのようにしか見えなくなり、同じ検査なのに見え方が違ったり、相手の見え方に引っ張られるのが不思議でした。
しかしこれは聖書も同じであると思いました。今までの教会生活で同じ個所でもその時の体験や感じ方、また他の人の感じ方を聞くことで迫ってくる意味も力も違うように感じてきました。詩編23編にしても、主が側にいて伴奏してくれていると感じることもあれば、本当に伴奏してくれているのかまではいきませんが、主の距離を遠くに感じることもありました。司式者が1章を読む間に、たった1行の個所が何故か迫ってきたり。その時、その時で、感じる意味も力も違う聖書の御言葉はただそこにあるのではなくやはり生きているのではないかと思うのです。よく本を開いたら文字が一か所だけ輝いて見えるというシーンがどらえもんの漫画にありますが、まさにそのような感じだと思います。
イエスキリストが十字架にかかり私たちの罪を背負って死ぬ個所も、私たちその他大勢のみんなではなく、それぞれに私、あなた、隣人、一人一人に対して発せられた言葉であり、そして、主は輝いている御言葉を通してイエスキリストとご自身の愛を示しておられることを今も伝えているのではないかと思うのです。
聖書の言葉は2000年以上前から存在し、様々な紛争や天災を経験しながら、廃れることなく、遠い国から運ばれ、言語も違う日本語に丁寧に翻訳されて、先人たちの努力と知恵によって奇跡的に今朝ここにあることを感謝します。
「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに,それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず,ただ,私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて,あなたを否み,『主とはだれだ。』と言わないために。また,私が貧しくて,盗みをし,私の神の御名を汚すことのないために。」箴言30:7-9