【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2023年8月20日説教要旨
聖書箇所 ローマ信徒への手紙3章19節~31節
守れない御言葉?
洪淳奎宣教師
(和白バプテスト教会)
20世紀後半に影響力のある神学者の一人であるイギリスのアーサーピンクは「聖書の権威」という本でこのように言いました。
「神様の霊感を受けて書かれた聖書を信じない人は、まるで船長もいないまま風浪が吹き荒れる海の上で漂流する船のようだ。」
ところが、信者である私たちも聖書を好んで読んでいないかも知れません。その中の一つの理由は、聖書を読んだのですが、むしろ罪悪感を覚えるからではないかと思われます。それは、御言葉の通りに生きていけない自分の姿が映し出されるからであります。
そこで、私たちはこのような疑問を抱くようになります。一体守ることのできないこの聖書をなぜ神様は私たちに与えてくださったのか?
まず第一に、すべての人を神様の前に罪人として立たせるためであります。つまり、御言葉を通じて人間は自分の罪を自覚し、神様の裁きの座の前に立つことが聖書の最初の有益だということです。今日の本文の19節に使徒パウロもこのように語っています。
「私たちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。」
次の第二に、すべての人がイエス・キリストを信じる信仰によってのみ義とされるということを教えるためであります。つまり、罪を悟らせることにとどまるのではなく、私たちを義とされるために御言葉を与えてくださったということです。聖書は人を実際に殺した者だけでなく、憎んだ者も殺人者だと、そして、実際に姦淫した者だけでなく、心で淫欲を抱いた者も姦淫した者だと言っています。それなのに私たちがどうやって義とされることができるでしょうか。21節に律法とは別に、神の義が現されたと語っています。神の義は何でしょうか。それはまさにイエス・キリストです。イエス・キリストが私たちの義となったということです。
最後に、私たちが神様の御言葉をよりよく守りながら生きていけるようにするためであります。え?それは、矛盾する話じゃないですか?そうではありません。御言葉をくださったより究極的な理由があります。31節「すると、信仰のゆえに、私たちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」。義とされたので、もう自分勝手に生きてもいいわけではありません。神様の恵みにとって、むしろ御言葉を喜んで守りながら生きていけるようになったということです。
信仰には二つの誤った姿があり得ます。それは前述のとおり、自分を罪に定める第一段階にとどまることと、もう裁きがないから自分勝手に生きる第二段階にとどまることです。しかし、私たちは第三段階まで進まなければなりません。私たちのためにご自分の御子を出してくださったその十字架の恵みの前で、今日も感激と喜びで御言葉に従っていく私たちとなりますように。