67年ぶりのクラス会が故郷金沢でありました。犀川中学1956(昭和31)卒業のクラスです。杖2本を曳いての単独の旅行です。妻も相当心配しましたが神のお守りにより無事に参加できました。10月6日に福岡から小松行きの飛行機に乗りました。小松まで妹と甥が迎えにきてくれました。クラス会は湯涌温泉で10日から11日にかけてありました。湯涌は犀川中学の近くにあるのです。卒業のクラスは46名でしたが、元気で出席できたのは8名でした(男子3人女子5名)。校歌や懐かしい歌を共に歌い、あくる日は車に分乗しその頃歩いて通った道をたどりました。水は清き故郷、山は青き故郷です。周辺の風景はほとんど変わっていませんでした。昔も今も歌が上手なY君のリードで校歌や懐かしい歌を共に歌いました。I君は晴耕雨読の生活を楽しんでいます。Y君はこの12月に建築のことでまたネパールとインドネシアに赴くとのこと。Aさんは新鮮な野菜を生産し朝市に出荷しているとのこと。妻や夫に先立たれた友もいました。83歳という年齢を思えば致し方無いことです。
伝道所を入れると10年金沢で牧師をつとめました(1968~1978)。この10年は特別に神がお与えになった教育と鍛錬の期間でした。私は現在の金沢市国見町という小さな山村に生まれました。キリスト教とのつながりはありませんでした。小学4年生ごろかと記憶しますが、県の教育委員の先生が隣村の樫見分校を訪問されたのです。私は分校の生徒でした。その方は村尾という名前のクリスチャンでした。その先生は日本キリスト教団長町教会の信徒でした。学校視察のおり、犀川の河畔で「いつか犀川の地域からクリスチャンを起こしてください」とお祈りなさったのです(のちに村尾先生から直接聞きました)。犀川中学でも最も遠くて辺鄙な山村から牧師が出ました(クラス会でのY君の言葉)。
金沢キリスト教会との出会いは中学卒業後、金沢市内に引っ越した後のことです。家の近くに教会が出来たのです。それは当時京都キリスト教会の伝道所として開設された教会でした。現在の日本バプテスト連盟金沢キリスト教会です。友の誘いでそこに行きました。ある日特伝があり、その招き(インヴィテーション)でキリストを受け入れました。これがキリストとの初めての出会いでした。牧師は宮地治先生でした。
金沢から福岡の西南学院大学に学ぶようになったのも、宮地治先生のおすすめによるものでした。宮地治牧師は戦前の西南学院中学校を卒業されていました。神学科に進む前に、英文学科に入学したのも先生のおすすめです。「牧師になろうとするなら、人の心を学ぶ文学も必要だよ」と先生は言われました。このことは後の留学への道を開いてくれました。私がキリスト教を知り、西南学院に奉職できたのもすべて神の導きであり、多くの方の祈りがあったのだと思わざるを得ません。
聖書に「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(コリント第一1:30)とあります。私たちの救いのために必要なことは、全部イエス・キリストが成し遂げてくださいました。私たちがクリスチャンになったのも神がなされたのです。バプテスマを受けた16歳の時には救いが何かもわかりませんでした。神は私たちのためすべてを備え、鍛錬し確実な救いへと導いてくださいます。このことに疑いはありません。感謝です。
(2023/11/12 瀬戸毅義)