どんよりした梅雨空の下、窓越しに見えるアジサイが、今年も目を楽しませています。咲いているゼラニュームもベコニアも花菖蒲もそれぞれに個性があり、花には心が和みます。
家の小さな庭には、アマリリスやカラーといった今が盛りの花々と共に、アジサイが5株あって、夫々が個性の違いを際立たせています。玄関脇にあるものが最も古株で、直径が1.5メートルぐらい、ざっと数えて70個あまりの花が付いています。てまり状のピンクがかった薄紫の花は、通りがかりの人たちに季節感とひとときの安らぎを与えていることでしょう。
好きな花はなんですかと聞かれると、私は躊躇なく「アジサイ」と答えています。私がアジサイを好きだと言うのは、美しいから、色が良いから、形が好ましいから、という理由ではありません。アジサイが「思い出」と共にあるからです。
それは小学校5年生のことだったと記憶しています。ある日、母が、教室に飾るアジサイを新聞紙に包んで持たせたのでした。先生がこの花を教室に飾ってくれることを、そして先生が喜んでくれる顔を思い浮かべながら、1時間近くの道のりを急ぎました。
そして、その花を教壇の上に置きました。間もなくやって来た先生は、私が持って来た花よりも立派な花を抱えていました。すると先生は、教壇の上に置いた私が持って来た花を無造作にポイとゴミ箱に捨てたのでした。私の心は傷つきました。憤りました。花も可哀そうでしたが、母の気持ちも無残に捨てられたのでした。忘れられないその花こそ、「アジサイ」なのです。
人生をひた走り52歳で救いの道に与るまでは、花などに向ける余裕もなかった私でしたが、神様が造って下さっている花々を、いつしか愛でる者へと変えて下さっていたのでした。その中でも、そぼ降る雨に濡れて輝く「アジサイ」は、思い出と共にある愛おしい花なのです。私が傷ついたことなど知らずに、先生は過ごされたことでしょう。しかし神様のなさる業は、何と深遠でありましょうか。人は誰でも罪を犯し、人を傷つける者だから、配慮のない行いを慎むことの大切さを、その先生を通して教えられていたのです。
2014年6月22日 岩橋隆二