人を騙した場合、神様はどうのように考えられるのか? 人を騙す行為は、悪いことに違いありません。ならば、おこないのよしあしに応じて、その報いがあるのでしょうか? 今日の聖書箇所は、ヤコブが帰還する場面です。母リベカと共謀して兄エサウの長子の権利を奪い、その結果、エサウから命を狙われ長く逃亡生活をした後、神の言葉に従って親族の地に帰る場面が描かれています。
ヤコブの生涯は欺きと騙し合いの連続でした。聖書に登場する人物で「欺く」ことで印象深いのは、何と言ってもダビデ王ではないでしょうか。ウリヤの妻バテシバを奪い取るために策略をなし、ウリヤを戦場で死なせます。サムエル記下11章27節に、「ダビデがしたこの事は主を怒らせた」とあります。同じく12章11節に、「主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。
この主の怒りの言葉を聞いたダビデは、「わたしは主に罪をおかしました」(サム下12:13)と悔い改めます。ダビデの心からの悔い改めを見て主は怒りを収められます。ここが大事なところです。人間は生まれながらの罪人です。誰も罪を犯します。そのとき、罪を悔い改め、神様の啓示、つまり神の示される言葉に従順に従えるかどうかが、人生に祝福がいただけるかどうかの分岐点なのです。
ヤコブは兄エサウを騙しました。そのために逃避行を余儀なくされました。しかし、ヤコブは神様の啓示に応答し、ひたすら従順に神の言葉に従います。12節の「ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべてわたしには分かっている」(新共同訳)という呼びかけにもあるとおり、生まれ故郷を離れて孤独の中にある時も、不条理な現実のだだなかで生きづらさを感じて嘆くときも、主はいつもヤコブと共におられました。何一つ持たないヤコブの逃避行において、主ご自身が「神の家(ベテル)を保証するという、その約束が実現する時が来たのです。
ヤコブは神からのみ言葉を聞く前に「ヤコブよ」(11節)との呼びかけを聞いたことを告げています。神の言葉はこのようにいつも個人に向かって語りかけられるものです。その語りかけを聞き、それに従うことが信仰です。神はどんな境遇におかれている人に対しても使命を与え、その人に語りかけられます。それを聞きわけ、そこでみ言葉への聴従に生きることが信仰なのです。ヤコブはずる賢い男であったが、彼はひとたび神よりの語りかけを聞いたとき、決然とそれに従いました。大事なことは、神の語りかけに対して従順であるということです。
2014.9.7 説教要旨 岩橋 隆二