私は2001年2月から今までホームレス支援でたくさんの方々の死に遭いました。その中で一番印象が強く深くかかわった人の事についてお話したいと思います。
その人はNさんです。実家は傘を作っていて、長男なのでその仕事を継ぐことになっていましたが、彼はそれを嫌って家を出て喫茶店などに勤めていました。詳しいことはわかりませんがホームレスになりました。2002 年に「福岡すまいの会」が立ちあがり、私もホームレスの方々の自立のためになりたいとすまいの会に入りました。Nさんが自立したいとの事で大宰府に住むことになりました。一番近いわたしが彼の担当になりました。男性一人のところに女性一人が行くのは良くないと思い夫と一緒によく訪問しました。彼は家具や台所用品が全くなく、役所からもらった布団とテーブルしかありませんでした。彼の部屋はゴミ一つなくテーブルの上もきれいでした。彼は昼間はいつもいませんでした。朝起きると洗面して、夕方まで外で過ごし、夜寝に帰るだけでした。どうしてか疑問に思ったのですが、後でそのわけがわかりました。ある時訪ねていくと、半年以上前から下血があるというので泌尿器の病院につれていきました。その結果は膀胱がんでした。手術について彼は「自分が死んでも悲しむ人はいないので、手術はしない」といいましたが、がんセンターを紹介され入院しましたが、やはり手術はしたくないとの一点張りでした。医師から「手術をしないならホスピスに行ってください」といわれ、栄光病院を紹介してくださいました。栄光病院に行く朝、迎えに行くと「いろいろお世話になったから」といってブローチをプレゼントしてくれました。それから半年近く栄光病院に入院しました。日曜日は最初、私が迎えに行って病院に送っていきました。その後は宇美教会の男性二人が交代で迎えに行ってくださり、私は帰りだけ送っていきました。話を聞くと以前ホームレスだった時、大橋の新生教会でバプテスマを受けたという事がわかり、新生教会から宇美教会に転籍しました。宇美教会の方々は皆、彼をあたたかく迎えてくださいました。また当時夫が関わっていた青葉伝道所の方々と一泊合同修養会にも参加しました。修養会には川野直人牧師(故人)も参加されました。場所は大分由布院でバスをチャーターしました。また病院の許可を得て我が家に一泊したことがありましたが「盆と正月が一緒に来たようだ」ととても喜んでいました。
本人はここが死ぬ場所だとということが認識していないようで、「もう一度博多に住みたい」といいましたが「病気だからしかたないでしょ」というとさみしそうに「そうだね」といいました。最後の日曜日、一緒に食事をして病院に帰って来た時「ビールが飲みたいといいました。後でわかったことですが、ホスピスに入院している人はビールも許されていると知りましたが、私はそのことを知らなかったので、「お酒はだめよ」といって飲ませませんでした。最後に一杯飲ませてあげたかったと後悔しました。その週の半ば頃、洗濯をすませた後、夜になって急変し未明に亡くなりました。朝になって駆けつけましたが穏やかな顔で、今にも「来てくれたの」という声が聞こえそうでした。宇美教会で葬儀を行い、宇美教会の人たち、住まいの会やおにぎりの会の方々みんなで集まり、とても良い葬儀をすることができました。彼は無縁仏にはなりたくないと言っていましたので、「大丈夫宇美教会の納骨堂に入るよ」と生前約束していた通り、宇美教会の納骨堂に納まっています。
彼は精神病を患っており大宰府に居る時は、トイレに入ると「入るな」という声が聞こえる。外に出ると近所の人たちが自分の悪口をいっている。だからなるべく家にいないで外にいるのだと話しました。小宮先生から統合失調症の薬を処方していただいたお陰で、入院してから悪口が聞こえなくなりましたので、入院生活は苦しくない様でした。毎月一度小宮先生から薬をもらい病院に届けました。毎朝の院内礼拝に必ず出席していたとのこと、彼にとって人生でいちばんおだやかな時だったのかもしれません。享年、9月でちょうど70歳になったところでした。病気になった時も、亡くなった時も兄弟には保護課から連絡しましたが何も返事がありませんでした。
ホームレスの方々の死をたくさん見ましたが、Nさんの穏やかな死がわたしにとって一番印象に残っていましたのであかしをしました。
(瀬戸紀子)