原田和代
私がイエス様と出会うきっかけとなったのは春日原教会の付属幼稚園、恵星幼稚園に入園したことです。私とすぐ下の妹が通い、卒園後もあまり熱心とは言えませんが教会学校にも通いました。その間に、幼稚園の母の会の働きを通して熱心な仏教徒だった母が、私が小学3年生の時に、イエス様と出会いバプテスマを受けました。その後、父の転勤に伴って大分に転居し、大分教会に通うようになりました。大分、別府、大分と転居しながら10年間を過ごしたのですが、私は母の生き方を子供ながらに見ていて、私もイエス様を信じて歩みたいと願うようになりました。教会では牧師先生のメッセージはあまりよくわからなくて、教会の方々の証を聞くのが好きでした。特に社会でバリバリに働いているおじさんの証を聞きたいと思っていました。その人とイエス様とはどんな関係があるのか、聖書に書いてあることと今生きているこの世での歩みとはどんなふうに交わっているのか。その方が涙してイエス様との出会いを喜んで語られるのを聞くと本当に感動していました。母も生き生きと証をする人で肩肘張らず自然と、神様はねー、感謝よねー、と生活の中でよく話してくれました。「どうしてイエス様を信じたの?」と聞くと、「仏様は私が困った時、慈悲深い優しい半眼の目であたたかく私を見守ってくれていたけど、イエス様は私のところに来てくださったのよ」と言っていました。
私も母のように証が出来るクリスチャンになりたいと思っていました。何度か牧師先生から、「そろそろバプテスマを受けては?」と声をかけて頂きましたが、高校生の時にやっと素直に受けようと思いました。でも母のように人生を180度転換するような事ではなく、階段を一歩ずつ登る感じでバプテスマを受けて何もそんなに変わったわけではなくて、証なんて出来ないと思っていました。なので「証が出来るようにして下さい」と祈っていました。
その後、病気をしたり受験に失敗したり、反対に不思議な導きで合格出来たり、神様を賛美する者として立ちたいと思ったり、牧師として献身していこうとする夫との結婚へと導かれたり、授かった子供をすぐ流産してしまったり、6人の子供のうち5人までが不登校になって悩んだりと、いろいろな出来事の中で本当に溢れるように証を与えられてきました。でも特別な出来事がなくても、いつも共に歩んで下さっているイエス様との交わりのこと、その中で示されたことや嬉しかったこと、悔い改めたことなどを語るようなことが証なのかなと思います。
1年前に夫をこの筑紫野南教会に招聘して下さってありがとうございました。私は結婚を決意した時に、神様から「原田寛さんと一緒に私に仕えて来なさい」と呼びかけられました。なので、本当は1年前に転入会するのが当然だったのですが、城西教会が50周年を迎える年ということで、1年間城西教会に残ることにしました。城西教会では10年間歩んできました。福岡教会の牧師をやめて高齢者向けの宅配お弁当屋さんを始めることにした時に城西教会の牧師と執事さんが城西教会で礼拝を一緒にささげていきませんかとお声をかけて下さって、本当に感謝でした。その時、神様が私達を荒野の試練に導かれていると感じました。「今なら耐えられるはず、この道を歩みなさい」と言われている気がしました。お弁当屋さんの仕事そのものは、本当に尊いやりがいのある仕事でした。教会の中にいては出会うことのなかった人々との出会い、福祉関係の方たちとの交わり、共に働いて下さった神学生やその他の皆さんとの出会い、何よりもお弁当を待っていて下さるご高齢の方々との親しいやりとり、たくさんの心温まる経験をさせていただきました。でも、素人の私達には本当に経営が大変で、「主よ、日ごとの糧をお与え下さい」と必死に祈りつつの日々でした。そんな、ほとんど礼拝にのみ参加してさっと帰る私達を祈りとご支援により城西教会の皆様がしっかりと支えて下さいました。荒野の試練によってどんな風に新しく形造られたかはまだよくわかりませんが、この筑紫野南教会の皆様と共に主に喜ばれる歩みをして行きたいと願っています。今はレント(受難節)の期間中です。神の子イエス様が人として苦しみ痛み孤独を覚え、十字架で命を捨てて下さったことを心に深く刻みつけたいと思います。そしてイースターの喜びを一人でも多くの方たちに、筑紫野南教会の皆様と共にお伝えしてゆきたいと願っています。どうぞよろしくお願いいたします。
2025年4月6日