【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2022年3月20日説教要旨
聖書箇所 ローマ人への手紙3章21節~26節
十字架に生きる
新生キリスト教会
竹田 浩
私達クリスチャンにとって一番大事な十字架について、祈り考えるレント(受難節)を迎えました。かの有名な内村鑑三は「キリスト教は十字架教」であると申したが、確かにその通りです。キリスト教信仰の中心は十字架にあります。それでは、一体十字架に生きると言う事は具体的にどういう事でしょうか。大きく分けると2つの事が言えると思います。先ず第一に十字架は、「信じ、仰ぎ救いを受ける信仰の対象」です。第二番目には、「十字架は背負って主に従い、救いの完成に至るべき道筋」です。
1、十字架についておられるイエス様を信じ仰ぐ時に救いが私達に与えられます。キリスト教信仰は真に信仰によって義とされる道です。パウロは、ローマ書の中で以下の様に述べています。「人は皆、罪をおかして神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリストイエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」と申しています。信じるだけで義とされる、この救いの道、これが十字架の恵みです。内村鑑三は、信仰に入った後なかなか信仰の平安を見出す事が出来ず、アメリカに留学しました。留学前には日本でクリスチャンの女性と結婚しましたが、うまくいかず離婚して、魂の平安を求めてアメリカに留学します。何とか、平安を得たいと孤児院で奉仕活動に励みましたが魂の平安を見出すことが出来ず、悶々としてクリスチャンになって十数年をすごしました。そして、遂にアマステ大学で勉学中に学長のシーリーに出会い始めて霊の目開かれ、十字架のイエス様に出会う敬虔をしました。彼はその時の事を以下の様に記して居ます。
「洗礼を受けて後、十数年、種々のばからしき経験と失敗の後、天賦の体力と能力とを物にもあらぬものの為に消費せし後、余は世の罪のありのままにて父の慈愛のみをたのみにて、父の家に帰りきたり理屈を述べず、義をたてず、ただ余の神が余の為に世の初めより備えられた神の小羊の贖いに頼らざるを得ざるに至れり。時に徳の流れキリストより我がうちに注入するを感じたり」。
2、十字架は仰いで救われるだけではなく、自分の背中に背負ってイエス様に従うべきものです。イエス様は「誰でもわたしについて来たいと思う者は、自分を捨て自分の十字架を背負って、わたしに従ってきなさい」ともうされました。私達は仰いで救われ、主から頂いた十字架を担って救いの完成に至るのです。ただ仰いで救われるだけではだめです。イエス様を信じ救われたならば、イエス様が私達一人一人の背中に乗せて下さる十字架を背負っていくのです。神様が私にも牧師になると言う十字架の道を示して下さいました。60年近くに及ぶ信仰生活の中で、この十字架がとても重たく思える時もありましたが、それでもその様な中で必死に十字架の主に寄りすがり、恵みを受けて今日まで生き抜いて参りました。どんなにか、大きな恵みをうけたか、とてもそれを言い表すことはできません。私達一人一人大きい小さいは別にして、主から与えられた十字架を担いつつ、主に従って信仰の成長を遂げていきたいと願います。皆様お一人お一人の上に主の祝福が満ち溢れます様に祈っております。