【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2022年8月28日説教要約
聖書箇所 サムエル記下12章1節~10節、13節
ダビデに与えられた復活の十字架
宗広 一美
ここで登場します預言者ナタンは、既に同じサムエル記下の7章で登場しています。その時は、ダビデに主からの祝福の<みことば>を伝えています。しかし、ここでは、まったく逆のような言葉を伝える使命でダビデに直面させられています。
この役目に対してのナタンの感情については、<みことば>は、何も語っていません。ただ与えられた言葉のみが語られています。つまりは、この言葉を語られた方の御心のみがこの内に込められていると思わされるのです。
しかし、その御心を読み解くことは、人自身の力では出来ません。私自身では、どうしようもないと思わされました。唯一それが出来るのは、イエス様のみでありましょう。すなわちイエス様の十字架復活の愛を通して示された父なる神様の愛によってのみ解き明かされるものと思わされるのです。そうであれば、私に与えられているイエス様の十字架復活の愛は、どのような気持ちでこれを語っているかが、重要と思わされるのであります。
まず、なぜナタンは、たとえを語らされたのか?です。父なる神様の愛は、子であるダビデの為したことを既にすべてご存知でありました。後に続く<みことば>でそれは、明らかです。
そして語られたたとえには、貧しい人に対する富んでいる人の明らかな理不尽、無理強いがありました。この無理強いは、聞いているダビデを非常に怒らせました。
ダビデの「主は生きておられる」という言葉は、非常に強い、誓って、本当だと強調する古代人の常套句です。ダビデは、無理強いした富んでいる人は、死に値すると宣言したのです。このダビデの非常な怒りは、このたとえを語られた父なる神様の苦しみの裏表のようです。それは、イエス様の十字架の苦しみを通して示された父なる神様の愛が、ここには、あると思わされるからです。
ダビデは、武力も、権力も支配する王になりました。しかし、それらでは、自分自身の隠された心をどうすることも出来ませんでした。<みことば>に背くこの隠された心をコントロールするために彼が求めたというか、求めざる得なかったものは、神様の慈しみ、憐れみでした。それも神様の慈しみによって、与えられる新たなる心、再びやり直して生きて行くことの出来る心です。ここに父なる神様からダビデに与えられた十字架復活の信仰を見るのです。