聖書箇所:サムエル記上16:1~13 説教題:「人は顔かたちを見、主は心を見る」
岩橋隆二
サムエル記は、預言者サムエルの他に彼と深い関係のあった三人の主要人物、エリ(サムエルの幼少時代を訓育)、サウル、ダビデを中心に展開されます。背景になっているのは、士師と呼ばれる指導者たちがイスラエル諸部族を治めていた時代末から、王国が誕生しその基礎が整い始めるまで、前11世紀半ばから前10世紀初期にかけての時代です。サムエル記の特徴は、何よりも語られている物語のわかりやすさにあります。旧約聖書そのものが、いわゆる聖人といったものにほとんど関心を示していませんが、その姿勢はサムエル記において顕著です。サムエル記に登場する人たちは、祭司であれ、預言者であれ、王であれ、特別に美化された人物は一人もいません。誰もが深い悩みを抱えて生きています。ときには神様までが、人間の行動に対して責任を感じ、反省を隠さないことが記されています。それとは対照的に、サムエル記に登場する女性たちの多くは積極的でたくましい姿があります。そして、冷静な判断で危機を乗り越え、人々の命を救う「賢い女」たちが何人も登場します。
サウルを退けられる神は、アマレク人のすべてのものを滅ぼし尽すように命じられます。つまり、息あるすべてのものを滅ぼす“ヘーレム”の戦いをせよと命ぜられたのです。ヘーレムとはヘブライ語で、破門、追放という意味です。この“ヘーレム”の命令は、主権がだれにあるかを告げる目的で下されます。イスラエルの信仰の純粋性がこの上なく大きな関心事となり、他の民に汚染されていないかどうかを見分けるときに下される命令です。サウルはこの試みにも失敗します。肥えた良い家畜を残しておいたのです。神様にいけにえとして献げるためであったという言い訳も用意します。しかし、サムエルは、情け容赦なくサウルを責めます。
神の預言者としてのサムエルの最後の働きは、新しい王の候補に油そそぎをすることでした。これはいのちがけの働きでもありました。生きている現在の王サウルが見逃すはずがないからです。しかし、神様はサムエルを催促され、サムエルがすべきことと話すべきことも直接告げられます。
ベツレヘム人エッサイには何人も息子がいました。その中で、神様の関心は、背が高く、容貌がすぐれ、力の強い者ではなく、家族の関心さえもない末の子に向けられました。羊飼いであったダビデは、血色が良く、目の美しい少年でした。サムエルはダビデに油そそいでラマへ帰ります。このようにして、イスラエルの第二の王が登場します。ダビデのことが、わざわいの霊に苦しめられているサウルにも知れます。立琴を上手にひき、勇気と武勇と弁才のあるすぐれた者と認められ、王を慰めるために抜擢されます。エッサイは息子ダビデをサウル王のところに送ります。ダビデは王の道具持ちとなり、わざわいの霊に苦しめられている王のために立琴をひきます。
主は、新しい時代を開いていく新しい神の人を備えられます。サムエルは、エッサイの息子たちのうち、エリアブの容貌と背の高さを見て、彼が主の前で油をそそがれる者だと思いました。ところが、主の御心は違いました。人はうわべを見ますが、主は心をご覧になります。主が働き人を選びだ出される基準は、うわべではなく真実な心と信仰です。そして、主が用いられる働き人には、霊を注がれます。