2015.12.13説教要旨 題:「光を証しする者」 聖書:ヨハネ1:29~34
牧師 岩橋 隆二
バプテスマのヨハネは、すべての人を照らすまことの「光」が来る前に、その「光」を証しするために「神から遣わされた者です。ヨハネ福音書は、このことを一貫して強調しています。そして、証しするそのお方は、ヨハネが靴の紐を解く資格もない程、力強い方であり、自分のように水ではなく、聖霊でバプレスマを授けると答えています。ヨハネは自分のことを、ひらすらイエスさまを証しするために遣わされた存在であることを告白しています。
イザヤ書40章3節「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。』」この言葉を用いて人々に悔い改めを説くヨハネは、自分がメシアの道備えをする者であることをわきまえています。ヨハネがイエスさまを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言った「子羊」とは、神殿礼拝でなされる犠牲の供え物として捧げられるものを指しており、イザヤ書のメシア預言53章7節の「ほふり場にひかれて行く子羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように」の記述とも深い関係があると思われます。バプテスマのヨハネは、メシアによる救いを、過越祭の子羊に重ねて語ります。それによって、イエスさまの十字架の死によって、人々が、罪が解き放たれることを、あらかじめ証ししたのです。
バプテスマのヨハネがイエスさまを証しする際、二度も「わたしはこのかたを知らなかった」と告白している様子が印象的です。ヨハネとイエスさまは親類ですから、「イエスさまを見た事もなかった」ということではなくて、「イエスさまがメシアである」ことを知らなかったと言っているのでしょう。ヨハネは、イエスさまに“霊”が降ってとどまるのを「見た」ので、この方こそ神の子であると証ししたと言っています。「知らなかったが見たので証しする」とは、そこにイエスさまとの出会いが起こっていたのだと考えられます。
信仰にとって「出会い」は、とても重要です。バプテスマのヨハネにとって、イエスさまとの出会いは、それまでの知識や予想では及ばないような「見た」という体験だったはずです。ヨハネは、イエスさまに出会った時、それまでの思いが変えられ、「この方こそ神の子である」と告白したのです。
皆さんも今まで自分の考えや生き方が変えられるようなイエスさまとの「出会い」を、日常生活の中で経験したことがあるのではないでしょうか。そして、バプテスマのヨハネのように、私たちにも一人一人に神さまから与えられた「役割」があるのではないでしょうか。皆さんに与えられた「役割(使命)」は、何でしょうか。それは、自分自身やまわりの人たちが期待するものとは違うかもしれません。
私たちはイエスさまの教えよりも、自分のことを優先していないでしょうか。この世で楽しいことをすることと、イエスさまの命をいただくことの両方を、同時に手に入れようとしている自分がいるかも知れません。
イエスさまがこの世に来てくださったことにより、罪により死ぬしかなかった私たちを、救いに与らせてくださったその喜びを、クリスマスを間もなく迎えるこの時期、その意味をしっかりと心に刻んで、イエスさまがくださった「新しい命」に生きてまいりたいと願います。